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愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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おじゃんぷを読んでますがどうにもこうにも現在の感想が「ババァァァァァ」にしかならないので
ちょっとぎんたまにおける各人の関係性を再考しておこうと思いました。

別にネタバレじゃないです。すごく当たり前の話しかしないです。
でも今現在どう捉えてるかを書き留めておこうと思ったので、以下ちょっと下げます。







各人の関係性っていうか…それぞれについて、ぽい。
すごく当たり前の話にしかならないんだけど。

新八
・ダメガネ=標準・一般人(よりちょっと低めの設定@クイックジャパン)=準主役/ぎんたまが第一話に新八の成長物語としての側面をもって始まったことを踏まえると裏主人公=名脇役=ツッコミ(彼がしっかりしないと世界が崩壊する) 嘘みたいだろ…これ…ぜんぶ等号でつながれるんだぜ…?
(ちなみに眼鏡が本体・眼鏡しかひっかかりがない・平面に眼鏡置いたみたいな人間=ダメガネ)
(もうそれ最初と最後だけつなげたらよくね?)(ダメガネ=ツッコミ)(あっ成り立った)(シスコンが抜けてた)
・新しい時代の侍。真撰組とは違う定義で、「侍」を継いでく新しい世代。
・新八→銀さんって、憧れ・なんだかんだで尊敬・でもダメなひとだなぁ、ダメな大人だなぁ。がデフォルト。「ぼくらのヒーロー」「みんなの銀さん」「雇い主」。

神楽ちゃん
・新八が新しい世代と時代において「侍」を継ぐものだとしたら、神楽ちゃんはなんだろう。新しい世代であるものの、旧い時代の遺物でもある気がする。夜兎と辰羅と荼枳尼は、滅びゆく種族であり闘争の歴史をあらわすものであり、やっぱり滅ぶべくして滅びゆく「旧時代」なのかも。
でもひとり女の子・個人としての神楽ちゃんはどうか。新しい世代としての彼女は。
それがつまり、親殺しをせずひとを傷付けることを選ばず、強くはなりたいけれども、「自分に負けない自分になりたい」なのではないかと。
・「夜兎も侍も変わりません。みんな自分と戦っています。ここでならわたしは自分に負けない自分になれると思うのです」=「強くなりたい」
・今更ながら、万事屋内における新八・神楽ちゃん・銀さんの年齢差とパワーバランスって絶妙。生物としていちばん強いのが神楽ちゃんだとかね(夜兎>地球人)。そして生物学的に女はつよいからね。少女と女の境目な年齢なあたりもね。大西氏ロリコンで正解。

近藤さん
・真撰組内における救済措置。お父さんでありつつこども。お母さん。
・万事屋を「いずれ巣立つもの」として比較した場合、真撰組は「過去現在未来において変わらないもの」。狭くて入り組んでるけど、個々の結びつきは密接で、緩やかな変化による妥協と許しがある。競い合ったりいびったりはあるけど。
・「ひろくてふつうのこころ」を持ってるひと
・廓然大公

土方
・ぎんたまの中である意味いちばん「男性的」。我を通すことで誰かを傷つけてもそれを貫く@ミツバさん
近藤さんと銀さんはこの意味合いでいくとむしろ女性的。我を通すが誰も傷つけない、こともできる。坂本と桂は男性的だけどまた意味が違う。土方は「自分、不器用ですから」だけど桂は不器用じゃなくて一本気。微妙に違う。
・不粋な男。ばかなおとこ。鬼のような馬鹿。仕様がないやつ。

沖田
・銀さんと同類項(ある意味で)
・年齢的には「新しい世代」「次の世代」でありつつも、旧い世界の遣り方を踏襲した「剣士」。沖田はどっか、「侍」というほど自由にはなれなくて、「武士」と呼ぶには足りない、奔放さがある。忠義はない、近藤さんへ捧げてるとしてもそれは忠義じゃない気がする。文字通りの「剣」な気がする。それが沖田が天才とも呼ばれる所以で、また「侍」でも「武士」でもなく「剣士」と呼ぶしかない部分だと思う。


・狂乱の貴公子であり、最狂のボケであり、最早電波であり、松陽先生の「目線」の後継者である。
思想でもなく立ち位置でもなく「目線」。夜明けを見る目。こどもを見る目。時代の先駆けを見る者。先生はどっちかっていうと傍観者だったと思うんですが、桂は当事者たらんとしてる気が。時代に対しての己の立ち位置の話。桂は「変えよう」としてますからね、変革の手段は時代に合わせて変節してきましたけど。時代の中で、というより、「時代というものに対して」、の。

坂本
・陸奥は本命彼女で近在の親友、銀さんは本命彼氏で遠恋の彼女。これデフォルト。
・新八の台詞「なんかあの人らにしか見えないものがあるのかな」が銀さんと坂本の(外から見た場合の)すべてを端的に表してる気がする。他人のまま、友人のまま、古い知人のまま、通じ合うものがある。距離も時間も関係なく。

高杉
・たとえば桂が先生の「視線/視点」の後継者で銀さんが「立ち位置/立場」の体現者だとしたら、高杉は何になるんだろう。何にもならないのかな。自分の中にまで松陽先生のことを落とし込めずにいるが故の羨望なんだろうか、けして表沙汰にならない類の話なんだろうけど。こう言い換えてもいいかもしれない。高杉は松陽先生のようになれないからこそ先生の意図も立ち位置もわからず、つまり「自分にとっての先生」しか視点がない。
桂と銀さんには「自分にとっての先生」の他に、「先生にとっての自分たち」があると思うんだ。新八や神楽ちゃんがいるから。

ちなみに後継者と体現者と考えた場合、前者を桂で後者を銀さんにしたのは括弧つきでになります。「後継者=受け継ぎ、踏襲しつつ、自分なりの遣り方、“次”の世代としての遣り方を模索してる。同一じゃないけど同種」、「体現者=必ずしもすべてを汲みとったわけではなくとも、自らの遣り方でそこに重なるもの」、みたいな。前者は「踏襲」があり、後者はそうではなくてもいい。
ただし「後継者=貰ったものを抱えて次につなぐ・渡す」、「体現者=次にまわせなくてもいい。貰ったひとのようになる」。憧憬と恋の違いみたいになってきましたが、そういう違いなんじゃないかなぁと思う…いや桂と銀さんが先生に抱くものはそうじゃないと思いますが。
「そのひとのようになりたいと思うか否か」が肝要かなと。桂の長髪リスペクトは先生所以だと思ってる。
銀さんは攘夷派と真撰組のなかで唯一、「こども」と関わってるので。

銀さん
・ぎんたまにおいて銀さんについて話をするのは至極あたりまえの通り道なんだけど、このひと側からの話ってすごく、ネタバレというか、それこそ“各人の関係性”における解答、ですよね。ぜんぶではないかもしれないけど、その節はある。
・背負うけれども抱き締めないひと
・「俺の護りたかったもん」=「俺の国」=「俺の武士道(ルール)」
・なんかもう、幼少→戦争参加・戦中→終戦・終戦と過渡期→冬の墓場、までが貴種流離譚そのまんまに思えてならない。そして隠者で漂泊者の系譜でもありそう。
・実際すんごく自己評価が低いひと。客観視もできるのに、だからこそかもしれないけど、自己評価が不当に低い。そしてそれを知ってもいる。
・護ることと手放すことが矛盾しない。断罪も救済も必要としていないで生きてゆけて、死ねもする。


もうちょっと山崎とか鬼兵隊とかスナックお登勢とかお妙さんとか吉原とか例に引きたかったんだけど時間切れ…!
というか激しく眠い。目がー目がー。

だんだん「現時点でのまとめ」なのか何なのかわからなくなってきた。でも読み始めた当初からほとんど一貫して変わってないんだ。こんだけ何年もああだこうだいってて変わってない、っていうのもナンですが。
終始一貫っていうか、進歩がないというか。変化はあるんです。ぎんたまは変遷の物語だとも思ってるんです。でも今見直してみても、多分こうだよね、というか。
空知の発表待ちも多々ありますが、たぶんこれ変わらないな。わたしのぎんたま観って、一話をじゃんぷで読んだ一読者の時代から変わってない。だんでらいおんから空知ファンではあったけれども!

今のおじゃんぷの展開の行方も、ぎんたまの今後もこれまでも。
常になにも考えてないくらいのままのほうが、すなおに受け取れる気がしてます。実際考えてないし。読むだけでいっぱいいっぱいで妄想とかできないし。なぜ世の腐女子やファンたちはあんなに想像力と情感豊かなんだ。ちょっと分けてほしい。
というこれも何年も前から思ってるとかそんな進歩がない。

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