愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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ああ過ぎちゃった…!
数時間遅れですが「寝るまでその日ルール」を適用します。
空知先生お誕生日おめでとうございます!
いくつになったの。
読みきりの時点で作風が三十代後半だったんだからやっと年齢が追いついてきたと考えれば別に枕がオッサンの臭いだろうがなんだろうがいいと思う。(空知botでよくそんな呟きが流れてくるから…)
だんでらいおんの時点で二十三とかそこらとか、ね。すごい。
いつも空知空知と呼び捨てですが、こんなに感性の時点で近しく、慕わしい漫画家さんちょっと珍しいと思う。ぎんたまをすきになるように、空知先生をすきになる。コミックスのあの筆ペンだだしゃべりを楽しみに待つようになる。
最近、宗教者の方の本を読んだんですが、
「どんなぶっ飛んだ教義も世界観も、それが非日常としての厚みを持つには、日常に足をつけていることが絶対に必要」みたいな一文がありまして。
「文学者でも、ひとりの生活者として日常に苦しみ生活に汗を流し人生に涙した人間の書くものは、宮沢賢治然り樋口一葉然り石川啄木然り、滲む血で書かれたようなリアルがある。彼らには挫折もあったが、その生活が彼らだった。苦しみながらも喜びがあり、汗を流して靴をすり減らしながらもたしかに生きたのであり、涙があるならばそれは辛いばかりではなかっただろう」とか。(うろおぼえなので意訳)
普通に暮らすのがいちばん難しくて尊いって話です。
ぎんたまの展開って、ときどき前提が完全におかしいのに(誉め言葉)
それでも滞りなく話が進行してそのまま最後まで貫かれることがわりとあるので、
ついてけないわ!読者置いてけぼりだわ!ってたまにツッコミが入るんですけど、
でもそれでも、…ぎんたまなんですよね。他の漫画とかじゃなくて。ぎんたまに戻ってきちゃうんですよね。いくらでも絵で魅せたり話がうまかったり展開が凄まじかったりするものはあるのに。でもそれでも…ぎんたまなんです。なんでか。
なんかもう好き嫌いとかじゃなくなってきてます。
「台詞多いよね。絵がいつまでたってもこれだよね。ネタがアウトだよね。でも…でもぎんたまなんだよね」って。「他の漫画でもいいんじゃない?」っていわれると、そう返してしまう。
話の完成度とか、絵とか、キャラ造形とか、設定とか、
いろいろつっこまれるべきことはいっぱいあって、
よく「おまえぎんたま歴長いね…」って苦笑されたりするんですけど、そんな友人も映画化したら一緒に見に行ったりとかしてくれて、騒いでくれたりしてくれて、
そんなのって、ぎんたまくらいなんですよね。(個人的に、わたし周辺では…)
なんでぎんたまなのかなとか、作品の要素がどうとか、いろいろ理由は挙げられるんですけど
上記の話を踏まえていうなら、そこに「生活」なり「日常」なりがあるからだ、っていうことだと思いました。
大体どうでもいいような一言なんです。
「こないだ蒸しパン作ってやったらね引いてたね。凝り過ぎたね」とか。
松平のとっつぁんが家帰ったら栗子ちゃんと洗濯物分けられてたりとか。
いろいろありすぎて例があげきれないんですけど。
それと同じことが空知の筆ペンだだしゃべりにもいえるんじゃないかなって思ったんです。あとコミックスの折り返しの作者の一言ね。それとジャンプの一番後ろの今週の一言みたいなのもね。
すごい日常。どうでもいいくらい生活の話。苦労っていうか惰性の部分。そういうのがたまに透けて見えて、それも空知一流のプレゼンテーションなんですけど、うまいなぁって思います。あーうんうん、とか、どうでもいいわ、とかって、思わず笑ってしまうので。
宗教者の方の対談集を読んで、
「現代には呪いが溢れてる。でも呪いを解く方法論を失くしたままだから、大変だ」
「呪いがあるように、祝いがあった。でも文化が廃れることで、古い呪いと祝いは有効性を失ってきている。新しい時代の新しい呪いに、どう新しい祝いのかたちを求めるか。それが急務だ」
みたいな話をしてて(すごく意訳)
で、古来から呪いに対して有効とされていた、最も強いといっていいものがあって、それが、「笑い」なんです。
呪いを無効化する。がくっと脱力して、そんなオチかよ!と観客が叫んでるうちに幕がおりる。
そして観客は非日常から日常に回帰する。
「笑い」という装置にはそういうちからがある。
空知漫画に笑ったり泣いたりしつつ、この漫画の持つちからは、そういうところなのかなぁなんて、思ったり思わなかったり。
そこに日常や生活をみるんです。それを笑うんです。笑い飛ばしてまた戻るんです。
何年経ってもぎんたまに戻って来てしまうのはそういうことかもしれません。
空知おめでとうからだいぶずれた。
そんな空知とぎんたまがだいすきだってことです。これからもすきですっていうことです。
今日までありがとう!明日からもよろしく!
空知漫画がだいすきです。先生の飲むお酒がおいしいものでありますように!健康でいて!たまには休んでください!毎週読んでは笑い読んでは泣きして呪いをかけられては祝いをいただいてるよ!
また来年もこうやってお祝いできますように。
数時間遅れですが「寝るまでその日ルール」を適用します。
空知先生お誕生日おめでとうございます!
いくつになったの。
読みきりの時点で作風が三十代後半だったんだからやっと年齢が追いついてきたと考えれば別に枕がオッサンの臭いだろうがなんだろうがいいと思う。(空知botでよくそんな呟きが流れてくるから…)
だんでらいおんの時点で二十三とかそこらとか、ね。すごい。
いつも空知空知と呼び捨てですが、こんなに感性の時点で近しく、慕わしい漫画家さんちょっと珍しいと思う。ぎんたまをすきになるように、空知先生をすきになる。コミックスのあの筆ペンだだしゃべりを楽しみに待つようになる。
最近、宗教者の方の本を読んだんですが、
「どんなぶっ飛んだ教義も世界観も、それが非日常としての厚みを持つには、日常に足をつけていることが絶対に必要」みたいな一文がありまして。
「文学者でも、ひとりの生活者として日常に苦しみ生活に汗を流し人生に涙した人間の書くものは、宮沢賢治然り樋口一葉然り石川啄木然り、滲む血で書かれたようなリアルがある。彼らには挫折もあったが、その生活が彼らだった。苦しみながらも喜びがあり、汗を流して靴をすり減らしながらもたしかに生きたのであり、涙があるならばそれは辛いばかりではなかっただろう」とか。(うろおぼえなので意訳)
普通に暮らすのがいちばん難しくて尊いって話です。
ぎんたまの展開って、ときどき前提が完全におかしいのに(誉め言葉)
それでも滞りなく話が進行してそのまま最後まで貫かれることがわりとあるので、
ついてけないわ!読者置いてけぼりだわ!ってたまにツッコミが入るんですけど、
でもそれでも、…ぎんたまなんですよね。他の漫画とかじゃなくて。ぎんたまに戻ってきちゃうんですよね。いくらでも絵で魅せたり話がうまかったり展開が凄まじかったりするものはあるのに。でもそれでも…ぎんたまなんです。なんでか。
なんかもう好き嫌いとかじゃなくなってきてます。
「台詞多いよね。絵がいつまでたってもこれだよね。ネタがアウトだよね。でも…でもぎんたまなんだよね」って。「他の漫画でもいいんじゃない?」っていわれると、そう返してしまう。
話の完成度とか、絵とか、キャラ造形とか、設定とか、
いろいろつっこまれるべきことはいっぱいあって、
よく「おまえぎんたま歴長いね…」って苦笑されたりするんですけど、そんな友人も映画化したら一緒に見に行ったりとかしてくれて、騒いでくれたりしてくれて、
そんなのって、ぎんたまくらいなんですよね。(個人的に、わたし周辺では…)
なんでぎんたまなのかなとか、作品の要素がどうとか、いろいろ理由は挙げられるんですけど
上記の話を踏まえていうなら、そこに「生活」なり「日常」なりがあるからだ、っていうことだと思いました。
大体どうでもいいような一言なんです。
「こないだ蒸しパン作ってやったらね引いてたね。凝り過ぎたね」とか。
松平のとっつぁんが家帰ったら栗子ちゃんと洗濯物分けられてたりとか。
いろいろありすぎて例があげきれないんですけど。
それと同じことが空知の筆ペンだだしゃべりにもいえるんじゃないかなって思ったんです。あとコミックスの折り返しの作者の一言ね。それとジャンプの一番後ろの今週の一言みたいなのもね。
すごい日常。どうでもいいくらい生活の話。苦労っていうか惰性の部分。そういうのがたまに透けて見えて、それも空知一流のプレゼンテーションなんですけど、うまいなぁって思います。あーうんうん、とか、どうでもいいわ、とかって、思わず笑ってしまうので。
宗教者の方の対談集を読んで、
「現代には呪いが溢れてる。でも呪いを解く方法論を失くしたままだから、大変だ」
「呪いがあるように、祝いがあった。でも文化が廃れることで、古い呪いと祝いは有効性を失ってきている。新しい時代の新しい呪いに、どう新しい祝いのかたちを求めるか。それが急務だ」
みたいな話をしてて(すごく意訳)
で、古来から呪いに対して有効とされていた、最も強いといっていいものがあって、それが、「笑い」なんです。
呪いを無効化する。がくっと脱力して、そんなオチかよ!と観客が叫んでるうちに幕がおりる。
そして観客は非日常から日常に回帰する。
「笑い」という装置にはそういうちからがある。
空知漫画に笑ったり泣いたりしつつ、この漫画の持つちからは、そういうところなのかなぁなんて、思ったり思わなかったり。
そこに日常や生活をみるんです。それを笑うんです。笑い飛ばしてまた戻るんです。
何年経ってもぎんたまに戻って来てしまうのはそういうことかもしれません。
空知おめでとうからだいぶずれた。
そんな空知とぎんたまがだいすきだってことです。これからもすきですっていうことです。
今日までありがとう!明日からもよろしく!
空知漫画がだいすきです。先生の飲むお酒がおいしいものでありますように!健康でいて!たまには休んでください!毎週読んでは笑い読んでは泣きして呪いをかけられては祝いをいただいてるよ!
また来年もこうやってお祝いできますように。
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