愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
まだしつこくホームズ(映画)の感想をいいたい。
ドラマ版もっかい見ようと思って…ツタヤ行ったら…貸し出し中で…
シャドウゲームも棚ごとまるっとなくって…
米版1もその煽りをくって軒並みなくって…
家で聖典をよむよむ。実は「叡智」のみ読んでないはず。昔読んだけど覚えてなくて手元にもないのが「最後の挨拶」。どうにか調達したい。
あっとジャンプも読みました!
以下ついったの感想まとめ。ホームズとかシャーロックとか銀さんとか。いろいろまざっとる。
ねたばれはないです。
たぶんぜんぶ7月24日のつぶやき。わりと自分用まとめ。
聖典やグラナダ版に愛称をつけるなど恐れ多い(笑
まんま「シャロ」だとそれどこのミルキィホームズ。
達海猛と銀さんをよく対比させるんですが、個人的に似すぎてるとおもうの。
それについてはどっかでもいったので割愛しますが。
タッツミーは「監督」で、銀さんは「みんなの銀さん」。どっちも少年漫画的な方法論として「みんなでちからをあわせてー」っていう文脈をつかうけど、彼ら個人の、個別の、達海猛として・坂田銀時として如何に力を持っているか、がきっとその「みんなで力合わせたらつよい」の根幹にある。
たまにここに赤木しげるも例にあげるけど、彼らって仲間はいても最後の最後の一歩は自分で歩くし、そこまでに踏み出す一歩も自分の足で行くんですよね。
そんなの誰だってそうだけど。でも「個別でつよい」からこそ、誰かといてもつよい、誰かをつよくさせる、ことが出来るのかなぁなんて。
シャーリーがシャドウゲームで「孤独なシャーリー」と呼ばれてるの然り、天才は孤独みたいです。「闇に降り立った天才」がタイトルになっちゃってる赤木さんなんかも生涯孤高。「家族はおらずとも友はいたのだ」という境地に辿りつくけど!
なんで孤独かって、なんで孤高かって、誰もそこに行けないからなんですよね。
誰も同じ景色を見れないからなんですよね。
タッツミーと銀さんは「天才」という呼ばれ方をしたことはないですが、稀代のプレイヤーで名将、英雄でヒーローではある。タッツミーの視野の広さの代名詞、「鳥の目」は観客やサックラーが見てる視点でもあるので、「誰も彼と同じ景色は見れない」というとエーといわれるかもしれないんですが
赤木しげるにしろシャーロック・ホームズにしろ達海猛にしろ坂田銀時にしろ、「彼の目を通して見た世界」の想像がつかない。
銀さんはいちばん「こっち側」寄りなので、わかる部分も多い気がしますが。それでも絶対に「彼にしか見えないもの」がある。
坂本との邂逅でぱっつぁんがいってたアレ。「なんかあの人らにしか見えないものがあんのかな」。
たぶんほんとにそういうものがあって、それが何かは、わからない。
彼らには「自分の遣り方」があって、これは銀さんだと「俺の武士道(ルール)」の一言であらわせる。それを絶対に曲げない。死んでも譲らない。意固地なくらいに。
ときどきそれは彼の怯懦の免罪符で、でも強さの所以でもある。
わかりにくいようでいてわかりやすくて、でも決して理解しきることは出来ないんだと思います。
天邪鬼だったり素直じゃなかったり偏屈だったり気分屋だったり。
ゴミの分別守らなかったり引きこもりだったり根なし草だったり。
理解出来る部分と出来ない部分としなくてもいい部分とがあって、誰もその孤独の領域を侵犯できないけど、でも愛されている。
赤木さんがあんまりにも気持ちのいい風に吹かれて逝ってしまったので(それが理由じゃないですが)、
タッツミーと銀さんもいつか気持ちのいい風に吹かれて振り向かずに手を上げて去っていく気がしてます。
それでもそこで生きて居ろ、愛されていろ、と
思う気持ちがないわけじゃないんですけど。
シャーリーとシャーロックが聖典のように探偵引退して田舎で養蜂に精を出すとは決まってないし、そうなるとしてもシャーリーらしい、シャーロックらしい隠居のかたちになるんだろうけど、今はそんな想像も出来ないけど、
「これが私の遣り方なのだ」に殉じてしまうだろう彼らが、
それを譲らなくてもいいから、周りに愛されてるといいよねぇ、理解者がひとりでもいるといいよねぇと思います。
いやワトソン/ジョンが既にいますが。マイキー/マイクロフト兄がいますが。
幸福よりも、自分自身よりも大事なもの・得がたいもの(と本人が思ってるもの)を追いかけてたり守ってたりしてる奴ら揃いですがこんなに愛されてる奴らもいないだろう(二次元ではともかく三次元で)。
やっぱり脱線しまくりました、うん…
シャーリーと銀さんが作中で確言してる「俺のルール・私の遣り方」についての話をしたかったんですが。
瞼が落ちてたきたのでまた今度。
ドラマ版もっかい見ようと思って…ツタヤ行ったら…貸し出し中で…
シャドウゲームも棚ごとまるっとなくって…
米版1もその煽りをくって軒並みなくって…
家で聖典をよむよむ。実は「叡智」のみ読んでないはず。昔読んだけど覚えてなくて手元にもないのが「最後の挨拶」。どうにか調達したい。
あっとジャンプも読みました!
以下ついったの感想まとめ。ホームズとかシャーロックとか銀さんとか。いろいろまざっとる。
ねたばれはないです。
たぶんぜんぶ7月24日のつぶやき。わりと自分用まとめ。
ジャンプ読んだ posted at 01:20:52
銀さんが駄々をこねるのを初めてみた。 posted at 01:22:03
補給したのでヲタク話はじめ。今週の暗殺教室の渚くんがかわいすぎて既に弥子だった。 posted at 01:45:12
殺先生がだいぶ迂闊なひとというか感情豊かで、すぐ怒るし泣くし焦るしでこれはもう受だなまごうことなき受だなと思ったけど別に腐った意味でなくても「かわいいひとだな」と思った明らかに人外だけど。 posted at 01:50:01
触手受け。いいと思う。(真顔 posted at 01:51:34
銀さんがああいう駄々こねるなんてなかったなぁ。新八たち「守るもの」にそれを晒すこともなかったし、ああいう執着というか後悔、慙愧の念をおもてに表すことすらなかったし。あの「ちくしょう」には正直胸をつかれた…
あっと上記の「シャーロック」はBBC版ドラマで、「シャーリー」は米版映画です。一応呼びわけてはいる。
脱線しますが米版が「シャーリー」なら、他の「ホームズ」たちの愛称はなんとしようか。
作中では愛称なんか出てこないので勝手に笑
BBC版は「シャロン」かなぁ、なんとなく。女性の愛称かこれは。でもシャーロック、女性的じゃないし一般的な美形でもないけど、なぁんか艶があるんですよね。
シャドウゲームみてシャーロック二期みててジャンプ読んだ今、銀さんあのひと一流の「俺の遣り方」ってやつは初期から変わってないのだなぁとつくづく。 posted at 02:06:06
シャドウゲームでシャーリーが教授と一人で相対するときに相棒に告げる「これが私の遣り方だ」っていうあれと同じ。そのあと保険はかけてても死んじゃう(未遂)のとかも。 posted at 02:12:49
この人ら似てないけど、「自分の遣り方、ルール」から逸脱しない、最後の一線を絶対に遵守するあたりが限りなくバカ(誉めてる)。というか助手と子どもらにバカといわれろ…怒られてしまえ。posted at 02:16:31
「もっといいたいこと」の中身がまとまってないんですけどだいたい既にいってるとおもう。
なんつーかその「遵守すべき最後の一線」に自らが含まれていない節があるからとりあえずバカ。いい大人がバカだともう一生治らない不治の病なので周りのひとらはもっと怒っていいと思うよ。シャーリーもシャーロックも銀さんもバカ。 posted at 02:21:10
シャーロック二期の最後を漏れ聞いてるのでシャーロックもバカ。BBCにしろ米版にしろなぜわざわざ相棒の前でしぬのだおのれら。 posted at 02:23:46
端的にいえば「マジたまんねぇ誰かこいつをはっ倒せ」な気持ちをいつもどっかで銀さんなりなんなり好きなキャラクターたちには感じてる。もどかしいけど変えられない部分を、変わんないでいてほしいけど誰か叱ってやってくれという気持ち。 posted at 02:27:33
わたしはお母さんじゃねぇんだぞ…(セルフ突っ込み posted at 02:30:05
恥ずかしいことをいうと、報われてほしいんだと思う。救われたらいいんだけどと思う。幸せだといいねと思う。んだと思う。だから怒られて叱られて呆れられてバカにされて、最後には赦されてほしいんだと思う。つまりわたしは彼らがだいすきなんだと思う。 posted at 02:35:00
はっず… posted at 02:35:09
かしがることもないのかな、本当は? posted at 02:35:39
銀さんはあれだ、個人的に達海猛とおんなじで、「もう大丈夫だな」「俺がいなくても」ってことばに最後には落ち着くイメージなんだな。なにが『最後』なのかしらないけど。でも置いていかれるのは実は銀さんでタッツミーなんだよなっていう。 posted at 02:40:16
銀さんが置いてかれるのは大人で、横に子どもらがいるからなんだけど。ぱっつぁん神楽が万事屋から「卒業」する日は必ず来るだろうけど銀さんはなにから卒業すれば…あれ銀八先生と構造おなじだな。銀八先生の場合は新八神楽以外のほぼすべての登場人物が卒業か。 posted at 02:46:27
なんていったらいいかわからないけど、銀さんにしろタッツミーにしろ、どっかの時点で必ず追い抜かれるんだよね周囲に。大人としてなのか監督としてなのか選手としてなのか旧い時代の侍としてなのかはわからないしそれ以外の何か、或いはすべてなのかもしれないけど。 posted at 02:50:33
かなりずれたけどこの人らは「間違っていても、違っていても、本当はもっと正しい道、優しい道が他にあっても、これが俺の遣り方です」ってのが一貫してるよねといいたかった。最善でも最良でも最高でも最悪最低ですらなくても、「自分の遣り方」を選ぶ。バカヤローどもめ。 posted at 03:01:22
別に頭が悪いわけでもないのにここまで振り切れてバカだともうしょうがないなって気になる。バカヤローどもめすきだ。 posted at 03:04:26
思えばオーフェン読んでた頃からそういうの変わってないんだな…バカヤローめはっ倒してやるあんたがすきよ、の一連の流れ。 posted at 03:09:33
シャーリーと銀さんは「自分の幸せより自分の遣り方を通すこと、自分らしくいることが幸福よりも命よりも重い。いやむしろ手前が手前でいることこそが自分の命」、「相手の幸福が自分の命より場合によっては重いこと」が見え隠れしてる節あってもういい殴らせろいや殴られろ隣にいる人間に posted at 03:16:42
完全に堂々巡りですがもっといいたいことはあるの posted at 03:18:17
「もっといいたいこと」の中身がまとまってないんですけどだいたい既にいってるとおもう。
銀さんがああいう駄々こねるなんてなかったなぁ。新八たち「守るもの」にそれを晒すこともなかったし、ああいう執着というか後悔、慙愧の念をおもてに表すことすらなかったし。あの「ちくしょう」には正直胸をつかれた…
あっと上記の「シャーロック」はBBC版ドラマで、「シャーリー」は米版映画です。一応呼びわけてはいる。
脱線しますが米版が「シャーリー」なら、他の「ホームズ」たちの愛称はなんとしようか。
作中では愛称なんか出てこないので勝手に笑
BBC版は「シャロン」かなぁ、なんとなく。女性の愛称かこれは。でもシャーロック、女性的じゃないし一般的な美形でもないけど、なぁんか艶があるんですよね。
まんま「シャロ」だとそれどこのミルキィホームズ。
達海猛と銀さんをよく対比させるんですが、個人的に似すぎてるとおもうの。
それについてはどっかでもいったので割愛しますが。
タッツミーは「監督」で、銀さんは「みんなの銀さん」。どっちも少年漫画的な方法論として「みんなでちからをあわせてー」っていう文脈をつかうけど、彼ら個人の、個別の、達海猛として・坂田銀時として如何に力を持っているか、がきっとその「みんなで力合わせたらつよい」の根幹にある。
たまにここに赤木しげるも例にあげるけど、彼らって仲間はいても最後の最後の一歩は自分で歩くし、そこまでに踏み出す一歩も自分の足で行くんですよね。
そんなの誰だってそうだけど。でも「個別でつよい」からこそ、誰かといてもつよい、誰かをつよくさせる、ことが出来るのかなぁなんて。
シャーリーがシャドウゲームで「孤独なシャーリー」と呼ばれてるの然り、天才は孤独みたいです。「闇に降り立った天才」がタイトルになっちゃってる赤木さんなんかも生涯孤高。「家族はおらずとも友はいたのだ」という境地に辿りつくけど!
なんで孤独かって、なんで孤高かって、誰もそこに行けないからなんですよね。
誰も同じ景色を見れないからなんですよね。
タッツミーと銀さんは「天才」という呼ばれ方をしたことはないですが、稀代のプレイヤーで名将、英雄でヒーローではある。タッツミーの視野の広さの代名詞、「鳥の目」は観客やサックラーが見てる視点でもあるので、「誰も彼と同じ景色は見れない」というとエーといわれるかもしれないんですが
赤木しげるにしろシャーロック・ホームズにしろ達海猛にしろ坂田銀時にしろ、「彼の目を通して見た世界」の想像がつかない。
銀さんはいちばん「こっち側」寄りなので、わかる部分も多い気がしますが。それでも絶対に「彼にしか見えないもの」がある。
坂本との邂逅でぱっつぁんがいってたアレ。「なんかあの人らにしか見えないものがあんのかな」。
たぶんほんとにそういうものがあって、それが何かは、わからない。
彼らには「自分の遣り方」があって、これは銀さんだと「俺の武士道(ルール)」の一言であらわせる。それを絶対に曲げない。死んでも譲らない。意固地なくらいに。
ときどきそれは彼の怯懦の免罪符で、でも強さの所以でもある。
わかりにくいようでいてわかりやすくて、でも決して理解しきることは出来ないんだと思います。
天邪鬼だったり素直じゃなかったり偏屈だったり気分屋だったり。
ゴミの分別守らなかったり引きこもりだったり根なし草だったり。
理解出来る部分と出来ない部分としなくてもいい部分とがあって、誰もその孤独の領域を侵犯できないけど、でも愛されている。
赤木さんがあんまりにも気持ちのいい風に吹かれて逝ってしまったので(それが理由じゃないですが)、
タッツミーと銀さんもいつか気持ちのいい風に吹かれて振り向かずに手を上げて去っていく気がしてます。
それでもそこで生きて居ろ、愛されていろ、と
思う気持ちがないわけじゃないんですけど。
シャーリーとシャーロックが聖典のように探偵引退して田舎で養蜂に精を出すとは決まってないし、そうなるとしてもシャーリーらしい、シャーロックらしい隠居のかたちになるんだろうけど、今はそんな想像も出来ないけど、
「これが私の遣り方なのだ」に殉じてしまうだろう彼らが、
それを譲らなくてもいいから、周りに愛されてるといいよねぇ、理解者がひとりでもいるといいよねぇと思います。
いやワトソン/ジョンが既にいますが。マイキー/マイクロフト兄がいますが。
幸福よりも、自分自身よりも大事なもの・得がたいもの(と本人が思ってるもの)を追いかけてたり守ってたりしてる奴ら揃いですがこんなに愛されてる奴らもいないだろう(二次元ではともかく三次元で)。
やっぱり脱線しまくりました、うん…
シャーリーと銀さんが作中で確言してる「俺のルール・私の遣り方」についての話をしたかったんですが。
瞼が落ちてたきたのでまた今度。
PR
COMMENT FORM
COMMENT