愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ぜんぜんぎんたまに関係ないことしゃべりに来ていいのか悩みどころです。
ミクシィで書けよ…て感じもするけれど、知り合いに晒すようなもんでもないんでちょいとここで。愚痴にあらず!
ちょっと授業で思うところがありまして。面白かったんだよねありていにいうと。
美学とか芸術学についてなんですが。学部がね、ちょいと違うから。わたしの専攻としてはそっちなんですが。
先生が二人ほどいまして、絵画的なものを専攻するのが一人と、去年一年学校休んでイタリア中心にヨーロッパ漫遊してきたのが一人。後者の講義。今のところ授業を受けてみるに、歴史と基督教と哲学全般に造詣が深い。
レオナルド・ダ・ヴィンチと聖骸布についてを端緒として、紀貫之と日本人的美的感覚、カント、アリストテレスでした。
面白いと思ったのはまぁ全部面白かったんですが。わりと食わず嫌いしてきたカントを興味深いと思えたことは収穫でした。ので、カントについて。
「無関心性」
踊り子が踊りを踊る。それを美しいと思う。
それはそこで完結しているんだというのが「無関心性」、なのかな?
劇が終わってから踊り子の楽屋に行こうとか、あの子としゃべってみたい、というのは、既に踊っていた踊り子とは分離したものなんだろうな。
カントは、そうして思った時点で(自分の欲が入った時点で)それは美ではなくなる、といっているらしいけれども。
まぁ美とは乖離してても、そこはそこで完結してるのだったら、美は魔力みたいなものじゃあないかな。時と場所、舞台設定と演出が必要な。魔力ってそういうもんです。
この前、えろすについてと銘打ってえんえん語ったけれども、怪盗キッドさまが魔性だというのはつまりこういうことです。魔力というのは、時と場所を選んで発現するものだという前提がある。キッドさまは分かりやすい演出をしておられる。白いマント、白い衣装、モノクルに、怪盗という肩書き。すべてが彼を「怪盗キッド」としてみせるための舞台設定で、マジックという演出が加わることによって、あそこまでの魔性に高められる。かくて魔力は立ち現れる。快斗くんに戻ると迫力も凄みもないのはつまるところこういうわけで。
ある一瞬にのみ眼前にあらわれる美という幻。劇という舞台で踊りという美が完結しているのなら、たしかに踊り子の楽屋をたずねるのは無粋です。が、別段間違ったことじゃあないと思うわけですお姉さんは。それが魔力に等しいものなら、そこで完結してるものなら、どうやったって劇が終わった後でその感じた美には壊すことはおろか触れることもかなわないわけで、だったら「自分の欲が出た瞬間に美は美でなくなる」というのはいかがなものかと思うわけですお姉さんは。まぁ興ざめるというば興ざめる、粋でないといえば粋でない。たしかにある意味で美ではなくなるんですが。
でもわたしがいってることは「魔力→美」ではあるけれども、「美=魔力」と一概にいえるかどうかもまた悩んでるんで、どうとも断言しがたい。いやいや、共通領域はたしかにあると思うんだけど。イコールでつなげるかどうかが問題。つなげなくてもいいんだけどね別に。
共通領域から、「主観的普遍妥当性の要求」へ話をつなげます。
自分が美しいと思うものは他者も美しいと思うはずだ、という無言の要求のこと。美的感覚が合わない人間とはうまくやれないのはつまりこういうこと。カントです。
上記を踏まえて、「目的なき合目的性」。
美と目的を結びつけてはいけない、とカントは云った(らしい)(台無しだよオイ)
何かを美しいと思ったら、そこに「何故」「どうして」といった理由はいらないってこと、なのかね。理由や動機を置き去りにして美はある、といったところか。
ええっと、カントは端的に云うとプロテスタント(「ローマカトリックを批判する者」)です。なので、デコラティブなもののために金集めをする法王から離れた、まぁ「誰かのためじゃなくて私」という主義を持つ人です。
なので、いろいろ上記した美についての論はここで一回転します。予想されうる結論は、「美とはわたしが判断するもの」、です。これはまぁ、そうっちゃそうなんですが、なんていうか西洋はものの「本質」を追究する性質があるから、カントの論はここで矛盾を含むというか。もとのところに戻ってきちゃったらだめじゃんと。
原点回帰は結構だと思うのだけれど、本末転倒になってしまうようだ。
カントの矛盾は恐らくここにあります。彼は美を大きく二分するんですが、それが、自由美と付属美。自由美は、花、鳥(なぜか極楽鳥や南国のもの)、アラベスク模様、歌詞のない楽曲、など。
で、付属美は、ひらたくいうと「条件付きの美」。前述した「目的なき合目的性」にかかります。
目的ありきのものは美にならない、ていう言葉なのだけれど、「~のために」が根幹にあって、目的概念があってはじめて美に至るものもあるよねと、そういってるわけですあのおじさんは(@カント)(なんていい草)
例①は建築。
建築物は何の目的もなく建てませんよね。学校とか教会とか、用途があってはじめてできる。建築というのは学校という目的のための手段なわけです。が、それでも建築は美しい。西洋の教会建築なんて、歴史的のみならず芸術的な遺跡ですもんね。
例②馬。
これがまたなんでなんだか、わかるようでわからんような感じなんだけれども。速く走る馬は美しい。つまりサラブレッドは美しいと。うん、なんかそうなるらしい。これはわたしの勉強不足だな。説明がしきれてない。もっと調べねば。
例③人間。
人間は美になれません。何故なら人間には目的意識があるからです。
でも、踊り子の例もそうだけれども、美しいことだってあるんです。だから、人間も条件付きの美。そういわれれりゃそうかと思うんですが。
ええっとここでやっと共通領域とかいう言葉に帰ってきますよ。
「普遍妥当性の要求」。別名、おれがきれいだと思うんだからお前もあれきれいだと思うよな(byジャ○アン)
に、基づいた「美的共通感覚」。
我々には共通する美的感覚がある、が要旨です。
これはもともとアリストテレスが云いだしたらしいんですが(うろおぼえ)(だって)
手で机に触れる。触れているのを目で見てる。触覚と視覚は別のものなのに、我々はそれを矛盾も混線もなく感じている。だったら、感覚を束ねる感覚器官があるはずだ、というのがアリストテレスいうところの「共通感覚」です。
これは科学的にいうところの神経系、つまり「脳」だと思うのですが。そこまでアリーさんはいってないので、まぁこれはここまでで。
感覚の共通の座、的意味合いだったんです、ここまでは。
これが18世紀から、微妙にして重大な誤謬があるかもしれない捉え方をされはじめる。
「sensus communic」(共通感覚)
↓
「comon sense」
コモンセンス、すなわち「常識」です。我々人間にはある程度共通した感覚、ひいては認識があるという。
たしかにそう信じなきゃやってられない(日常での他者とのコミュニケーションの危機に陥る危険がある)ので、いいんですが。いいんですが、無批判も礼賛もわたしは嫌いです。ええ嫌いですとも。
ただまぁ、変化するものとはいえ、ずいぶん遠い言葉になっちゃったねと。コモンセンスについてはそう思います。こっから「共感覚」ていう言葉が生まれ、精神分裂病や統合失調症といった現象やなんかにも連なったりするんですが、心理学はわたしの専攻ではないのでここで打ち止め。
なにがいいたかったかというと。うんまあカントですカント。まだ続きがある。
「絵画に色は関係ない。重要なのは形だ」
らしいですカント。ええっと、回り道すると、
色、音、味は「質量」といわれます。ヒュレーという。
それに対して「形式」があります。エイドスという。これはアリストテレスがいってたらしいですが。形式は形相ともいいますね。
形相の一例。花の種は外側からでは何の種かわからない。花実をつけて、はじめてそれが何の木か、花かわかる。つまり花がひらくまで本質はわからない。種という殻のなかに本質がくるみこまれているわけで。
アリストテレスの概念をちょいとかじります。さながら花の種のように、外からでは目に見えない本質があって、咲かせた花、つけた実がたとえば本質がかたちになったものとします。前者をエイドス、後者をモルフェ。ラテン語で後者をフォルマといいます。あれ逆だったかな。
そしてそのフォルマ「Forma」が転じて何になるか。英語の「form」、すなわち「かたち」です。こう考えると非常に面白い。
”本質があるかないかわからないものに形を与えて理解する”、それを「information」といいます。情報と訳されてからは身近になりましたね。情報ってのは、新しいようでいて随分古い言葉なのだよと先生は云っておりました。あーたしかに。
はい、「かたち」というものの持つ意味を踏まえて最後の見せ場いきますよ。
鍵盤の音のひとつをそれだけで美しいとは思わなくても、音が連なりメロディにまでなると、その旋律を美しいと思う。
ふたつのものがありそこには両者の関係があり、形式がある。
我々の美の感覚とは”形式的なもの”である。
形式的美、とカントはいいます。
絵画において、ひとつの色の好き嫌いについて論じられても、それは感覚的な好き嫌いであって普遍的な美ではない。
「色が集まった絵画」、その”絵画という形式”を我々は美しいと感じる。
これがさっきの「絵画に色は関係ない、重要なのはかたちだ」の意味であり、形式的美についての説明ですねん。
ああ長かった。こっからまだいいたいことあるんですがもうほんと無駄に長くなったんではしょってちょこっとだけ。
断言することで得られる世界についてです。成果であり正解であり、またそのどちらにもならないものでもある。
ここまで今日語った先生は、絵画的な専攻の先生よりひと世代うえでして。絵画的先生は彼を評して「断言的な世代」とか云いました。
わたしなりに噛み砕いた結果が、断言することによって手に入れ、また取りこぼすという方法論を採択している世代、のことではないかと。
世代によって価値観は違うからね。方法論も違うだろうねと。
たとえば「宗教は悪である」と断言したとする。
断言したことによって「悪であるところの宗教」は彼の手にはいる。
が、それ以外、つまり「善であるところの宗教」、「善ではないが悪ともいえない宗教」、「善悪など問題ではない宗教」は取りこぼされるわけです。
手にしたものの、なんと矮小でつまらぬものか。それでも、いくら僅かでも、その手にいれられるならば、語ることもしない卑怯なわたしなどよりはぜんぜんましなんですが。
断言することで手に入れる世界、について懐疑的なわたしも、絵画的な先生いうところの「そうでない世代」の一員なんだろうなと。なにより、懐疑的であるというところにその証拠があるのかと。そう思いましたねん。
わたしは断言することをしない人間です。慎重さ故ではありません。取りこぼされるものがあるのを知ってるからです。
と、いうか、「断言しない」というのがむしろわたしの基本姿勢ではないかと。絵画的先生の言と、今日語ってた先生とを見ながら、なあんとなく考えました。
言葉とは境界線をひくもので。断言というのはより強く境界を意識させる言葉だというだけですたぶん(オォイまた断言を避ける怯懦でたぞ)(ごめんでも怯懦だけでもない)
境界をひく、その仕草こそが境界的(マージナル)なのかなと。だから京極堂は実践者で、かつ境界に立つといわれるのかなと。言葉をあつかうというからにはそうとしか思えない。
こうして文字でなんやかや表現する以上、わたしも境界に立つマージナルな存在であるのかなぁと。語り部であるおのれをかえりみて思いました。
わたしも実践者なんです。
あっはっは落ち着く前に記事保存しちゃおう。長いうえに整理しながら書いてるからもう何がなんだか。わたししか意味わからんじゃないか。
こっから私信!
ユキサトさん!
私信受け取りましたァァァわたしも銀さん大好きです(ほんと懲りない)
うふふ楽しみですスレ銀!すれてるこども銀さん…すれてない桂とすごい勢いですれてく高杉…
考えるだけで楽しくてしゃーないです。
ゆうやさん!
バトンうけとりやしたァァァでも今日これひどい長いから近日中にでも!個人的にどっちかっていうとお兄さん希望!えろ本お部屋に隠すので空知的気遣い(気まずさ100%)で返してくださいなんか楽しみ(え)
ではまーた!
ミクシィで書けよ…て感じもするけれど、知り合いに晒すようなもんでもないんでちょいとここで。愚痴にあらず!
ちょっと授業で思うところがありまして。面白かったんだよねありていにいうと。
美学とか芸術学についてなんですが。学部がね、ちょいと違うから。わたしの専攻としてはそっちなんですが。
先生が二人ほどいまして、絵画的なものを専攻するのが一人と、去年一年学校休んでイタリア中心にヨーロッパ漫遊してきたのが一人。後者の講義。今のところ授業を受けてみるに、歴史と基督教と哲学全般に造詣が深い。
レオナルド・ダ・ヴィンチと聖骸布についてを端緒として、紀貫之と日本人的美的感覚、カント、アリストテレスでした。
面白いと思ったのはまぁ全部面白かったんですが。わりと食わず嫌いしてきたカントを興味深いと思えたことは収穫でした。ので、カントについて。
「無関心性」
踊り子が踊りを踊る。それを美しいと思う。
それはそこで完結しているんだというのが「無関心性」、なのかな?
劇が終わってから踊り子の楽屋に行こうとか、あの子としゃべってみたい、というのは、既に踊っていた踊り子とは分離したものなんだろうな。
カントは、そうして思った時点で(自分の欲が入った時点で)それは美ではなくなる、といっているらしいけれども。
まぁ美とは乖離してても、そこはそこで完結してるのだったら、美は魔力みたいなものじゃあないかな。時と場所、舞台設定と演出が必要な。魔力ってそういうもんです。
この前、えろすについてと銘打ってえんえん語ったけれども、怪盗キッドさまが魔性だというのはつまりこういうことです。魔力というのは、時と場所を選んで発現するものだという前提がある。キッドさまは分かりやすい演出をしておられる。白いマント、白い衣装、モノクルに、怪盗という肩書き。すべてが彼を「怪盗キッド」としてみせるための舞台設定で、マジックという演出が加わることによって、あそこまでの魔性に高められる。かくて魔力は立ち現れる。快斗くんに戻ると迫力も凄みもないのはつまるところこういうわけで。
ある一瞬にのみ眼前にあらわれる美という幻。劇という舞台で踊りという美が完結しているのなら、たしかに踊り子の楽屋をたずねるのは無粋です。が、別段間違ったことじゃあないと思うわけですお姉さんは。それが魔力に等しいものなら、そこで完結してるものなら、どうやったって劇が終わった後でその感じた美には壊すことはおろか触れることもかなわないわけで、だったら「自分の欲が出た瞬間に美は美でなくなる」というのはいかがなものかと思うわけですお姉さんは。まぁ興ざめるというば興ざめる、粋でないといえば粋でない。たしかにある意味で美ではなくなるんですが。
でもわたしがいってることは「魔力→美」ではあるけれども、「美=魔力」と一概にいえるかどうかもまた悩んでるんで、どうとも断言しがたい。いやいや、共通領域はたしかにあると思うんだけど。イコールでつなげるかどうかが問題。つなげなくてもいいんだけどね別に。
共通領域から、「主観的普遍妥当性の要求」へ話をつなげます。
自分が美しいと思うものは他者も美しいと思うはずだ、という無言の要求のこと。美的感覚が合わない人間とはうまくやれないのはつまりこういうこと。カントです。
上記を踏まえて、「目的なき合目的性」。
美と目的を結びつけてはいけない、とカントは云った(らしい)(台無しだよオイ)
何かを美しいと思ったら、そこに「何故」「どうして」といった理由はいらないってこと、なのかね。理由や動機を置き去りにして美はある、といったところか。
ええっと、カントは端的に云うとプロテスタント(「ローマカトリックを批判する者」)です。なので、デコラティブなもののために金集めをする法王から離れた、まぁ「誰かのためじゃなくて私」という主義を持つ人です。
なので、いろいろ上記した美についての論はここで一回転します。予想されうる結論は、「美とはわたしが判断するもの」、です。これはまぁ、そうっちゃそうなんですが、なんていうか西洋はものの「本質」を追究する性質があるから、カントの論はここで矛盾を含むというか。もとのところに戻ってきちゃったらだめじゃんと。
原点回帰は結構だと思うのだけれど、本末転倒になってしまうようだ。
カントの矛盾は恐らくここにあります。彼は美を大きく二分するんですが、それが、自由美と付属美。自由美は、花、鳥(なぜか極楽鳥や南国のもの)、アラベスク模様、歌詞のない楽曲、など。
で、付属美は、ひらたくいうと「条件付きの美」。前述した「目的なき合目的性」にかかります。
目的ありきのものは美にならない、ていう言葉なのだけれど、「~のために」が根幹にあって、目的概念があってはじめて美に至るものもあるよねと、そういってるわけですあのおじさんは(@カント)(なんていい草)
例①は建築。
建築物は何の目的もなく建てませんよね。学校とか教会とか、用途があってはじめてできる。建築というのは学校という目的のための手段なわけです。が、それでも建築は美しい。西洋の教会建築なんて、歴史的のみならず芸術的な遺跡ですもんね。
例②馬。
これがまたなんでなんだか、わかるようでわからんような感じなんだけれども。速く走る馬は美しい。つまりサラブレッドは美しいと。うん、なんかそうなるらしい。これはわたしの勉強不足だな。説明がしきれてない。もっと調べねば。
例③人間。
人間は美になれません。何故なら人間には目的意識があるからです。
でも、踊り子の例もそうだけれども、美しいことだってあるんです。だから、人間も条件付きの美。そういわれれりゃそうかと思うんですが。
ええっとここでやっと共通領域とかいう言葉に帰ってきますよ。
「普遍妥当性の要求」。別名、おれがきれいだと思うんだからお前もあれきれいだと思うよな(byジャ○アン)
に、基づいた「美的共通感覚」。
我々には共通する美的感覚がある、が要旨です。
これはもともとアリストテレスが云いだしたらしいんですが(うろおぼえ)(だって)
手で机に触れる。触れているのを目で見てる。触覚と視覚は別のものなのに、我々はそれを矛盾も混線もなく感じている。だったら、感覚を束ねる感覚器官があるはずだ、というのがアリストテレスいうところの「共通感覚」です。
これは科学的にいうところの神経系、つまり「脳」だと思うのですが。そこまでアリーさんはいってないので、まぁこれはここまでで。
感覚の共通の座、的意味合いだったんです、ここまでは。
これが18世紀から、微妙にして重大な誤謬があるかもしれない捉え方をされはじめる。
「sensus communic」(共通感覚)
↓
「comon sense」
コモンセンス、すなわち「常識」です。我々人間にはある程度共通した感覚、ひいては認識があるという。
たしかにそう信じなきゃやってられない(日常での他者とのコミュニケーションの危機に陥る危険がある)ので、いいんですが。いいんですが、無批判も礼賛もわたしは嫌いです。ええ嫌いですとも。
ただまぁ、変化するものとはいえ、ずいぶん遠い言葉になっちゃったねと。コモンセンスについてはそう思います。こっから「共感覚」ていう言葉が生まれ、精神分裂病や統合失調症といった現象やなんかにも連なったりするんですが、心理学はわたしの専攻ではないのでここで打ち止め。
なにがいいたかったかというと。うんまあカントですカント。まだ続きがある。
「絵画に色は関係ない。重要なのは形だ」
らしいですカント。ええっと、回り道すると、
色、音、味は「質量」といわれます。ヒュレーという。
それに対して「形式」があります。エイドスという。これはアリストテレスがいってたらしいですが。形式は形相ともいいますね。
形相の一例。花の種は外側からでは何の種かわからない。花実をつけて、はじめてそれが何の木か、花かわかる。つまり花がひらくまで本質はわからない。種という殻のなかに本質がくるみこまれているわけで。
アリストテレスの概念をちょいとかじります。さながら花の種のように、外からでは目に見えない本質があって、咲かせた花、つけた実がたとえば本質がかたちになったものとします。前者をエイドス、後者をモルフェ。ラテン語で後者をフォルマといいます。あれ逆だったかな。
そしてそのフォルマ「Forma」が転じて何になるか。英語の「form」、すなわち「かたち」です。こう考えると非常に面白い。
”本質があるかないかわからないものに形を与えて理解する”、それを「information」といいます。情報と訳されてからは身近になりましたね。情報ってのは、新しいようでいて随分古い言葉なのだよと先生は云っておりました。あーたしかに。
はい、「かたち」というものの持つ意味を踏まえて最後の見せ場いきますよ。
鍵盤の音のひとつをそれだけで美しいとは思わなくても、音が連なりメロディにまでなると、その旋律を美しいと思う。
ふたつのものがありそこには両者の関係があり、形式がある。
我々の美の感覚とは”形式的なもの”である。
形式的美、とカントはいいます。
絵画において、ひとつの色の好き嫌いについて論じられても、それは感覚的な好き嫌いであって普遍的な美ではない。
「色が集まった絵画」、その”絵画という形式”を我々は美しいと感じる。
これがさっきの「絵画に色は関係ない、重要なのはかたちだ」の意味であり、形式的美についての説明ですねん。
ああ長かった。こっからまだいいたいことあるんですがもうほんと無駄に長くなったんではしょってちょこっとだけ。
断言することで得られる世界についてです。成果であり正解であり、またそのどちらにもならないものでもある。
ここまで今日語った先生は、絵画的な専攻の先生よりひと世代うえでして。絵画的先生は彼を評して「断言的な世代」とか云いました。
わたしなりに噛み砕いた結果が、断言することによって手に入れ、また取りこぼすという方法論を採択している世代、のことではないかと。
世代によって価値観は違うからね。方法論も違うだろうねと。
たとえば「宗教は悪である」と断言したとする。
断言したことによって「悪であるところの宗教」は彼の手にはいる。
が、それ以外、つまり「善であるところの宗教」、「善ではないが悪ともいえない宗教」、「善悪など問題ではない宗教」は取りこぼされるわけです。
手にしたものの、なんと矮小でつまらぬものか。それでも、いくら僅かでも、その手にいれられるならば、語ることもしない卑怯なわたしなどよりはぜんぜんましなんですが。
断言することで手に入れる世界、について懐疑的なわたしも、絵画的な先生いうところの「そうでない世代」の一員なんだろうなと。なにより、懐疑的であるというところにその証拠があるのかと。そう思いましたねん。
わたしは断言することをしない人間です。慎重さ故ではありません。取りこぼされるものがあるのを知ってるからです。
と、いうか、「断言しない」というのがむしろわたしの基本姿勢ではないかと。絵画的先生の言と、今日語ってた先生とを見ながら、なあんとなく考えました。
言葉とは境界線をひくもので。断言というのはより強く境界を意識させる言葉だというだけですたぶん(オォイまた断言を避ける怯懦でたぞ)(ごめんでも怯懦だけでもない)
境界をひく、その仕草こそが境界的(マージナル)なのかなと。だから京極堂は実践者で、かつ境界に立つといわれるのかなと。言葉をあつかうというからにはそうとしか思えない。
こうして文字でなんやかや表現する以上、わたしも境界に立つマージナルな存在であるのかなぁと。語り部であるおのれをかえりみて思いました。
わたしも実践者なんです。
あっはっは落ち着く前に記事保存しちゃおう。長いうえに整理しながら書いてるからもう何がなんだか。わたししか意味わからんじゃないか。
こっから私信!
ユキサトさん!
私信受け取りましたァァァわたしも銀さん大好きです(ほんと懲りない)
うふふ楽しみですスレ銀!すれてるこども銀さん…すれてない桂とすごい勢いですれてく高杉…
考えるだけで楽しくてしゃーないです。
ゆうやさん!
バトンうけとりやしたァァァでも今日これひどい長いから近日中にでも!個人的にどっちかっていうとお兄さん希望!えろ本お部屋に隠すので空知的気遣い(気まずさ100%)で返してくださいなんか楽しみ(え)
ではまーた!
PR
COMMENT FORM
COMMENT