愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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今日いつもと違う位置から電車乗ってぼんやりしながらおりたせいで、駅で迷いました。
急いでたのに!もう二年も使ってる駅なのに!
でもブックファーストを見つけたので、帰りに寄ろう…と思いつつ急ぎました。遅刻でした。
帰りにブックファーストまでたどり着いて本を漁っていて、一冊サブカル論みたいなのを買いました。
ゼロ年代の批評ってあんまり見ない上に前時代的なのが多いな…と思ってたので、なんかそこらへんの。
読み終わったので、今日はその話。
カテゴリは「銀魂語り」っていうかこのサイトにおける二次創作で方法論として銀魂を選んだ理由、みたいな。あくまでわたし個人のだけど!なんかそんな。
内容を圧縮・置換・かいつまんで変換して・飛躍もありで語るのでたぶん本とはかけ離れた話になりそう。
90年代文脈は「父親=父性的なもの・権力・政治・世界が確固としてない=自分を正しく導いてくれない」の絶望で、
あと「父性の弾圧に敏感な人でも母性の抑圧には鈍感で、母性的世界観=子宮・転じてユートピアへの回帰願望とサザエさん現象には無批判」で、
現代はどっちかっていうと、父性がだめなら母性だ!とかいう議論も破綻してて、むしろ「親がなくても子は育つよ」、銀さんのいう「下の毛が生えたらてめーでてめーを育ててくもんだ」を肯定的にとらえ直すことによって成り立つんじゃないかってことになってて、
単位や構造としての「家族」の破綻はもはや当然で、というか前提であって、
家族=与えられるもの
から
疑似家族=自分で選択してその結果として得てゆくもの
になりつつある、それが現代における救いだ、と。
(ここまで読んだ段階で、あっそれぎんたまだよ、わたしそういうことを万事屋をとおして書きたかったんだよ、とか思ってたんですが)
(まだ先がある)
疑似家族というのは、血縁でもなく、地域でもなくまたはあり、地域=コミュニティは場所でありイデオロギーであり、何気ない時間を共有する間柄であり、それが現代における「物語」である、とするもので
恋愛=一対一の至上主義、ではない。
むしろ友情とか仲間意識とか、なんかそんな。
非日常や、
前時代的な「大いなる物語=バブル経済や終身雇用や武士道や、あらゆる社会基盤」がない、この現代には
既に日常しか残っておらず
しかしそれを絶望と定義するか、否か。
日常とは小さな物語の集まりであり、可能性であって
誰かが名付けてくれないからといって絶望するには及ばない
と、個人的にとらえなおすとこういうことを言っていたのですが
銀魂ってその要素満たしてるよね、と思って読んでました。
だから銀さんは戦後の世界の日常を生きてるんだよね、とか。
(ほんと蛇足ながら、ゼロ年代のカルチャーがどうだろうが、個人的にはそういうことがいいたくてものを書いてきた節がある。読みものとしてはどうだろうと思うけど説明としては「Hello hero」なんてまさにその類だと思う…)
最終章まで読み進めてあと終わり数ページに至って驚愕したのが、例に銀魂が引かれてたことです。
あれは愕然とした…まるっといいたいこといってくれてた…
以下抜粋。
たぶん、銀時は知っているのだ。この世界が既に「歴史が個人の生を意味づけてくれる(ロマンを備給してくれる)」親切設計を喪ってしまっていることを。そう、銀時は異星人に敗北していじけているのではなく、世界のしくみが変わったことを悟っているのだ。(中略)90年代的な文脈での「ロマンの喪失」は実のところ「ロマンの喪失」ではない。「世界(歴史)がロマンを与えてくれるという装置」の喪失なのだ。たとえば銀時がそうであるように、あるいは日常だけが残されたこの世界にロマンを見出すことは、そう難しいことではないはずだ。そして、銀時は今日も日常を生き続ける。
だから銀魂は侍の話でも現代の話なんだと思う。
これが本の最後の最後に来るっていうのがまた…非常に可能性を感じます。思えば要素盛りだくさんですしね。疑似家族とか。
自分が疑似家族(けっして家族ではない)に弱い一因がわかりました。前からわかってたけど。めぐりあわせと選び取ったものとしての関係だからみたいです。
あと最近よく語ってる忍たまは、また別の(現代を肯定できる)要素の詰まった物語みたいで。
権威の意味付けのない(ないからこその)楽しさ・関係・若さ=クラブ活動(学校のでも学外でも)
自分の好きなコミュニティに属していればいい現代において唯一強制的に義務的に接続される世界=学校
期間限定の永遠、終わるからこその素晴らしき日常、疑似家族=委員会・先輩後輩・教師と生徒・同じクラスの仲間という読み替え、
更に時代設定が室町で戦国。イデオロギーが現代ではない、ということ。
つまり現代以前=大いなる物語のある時代、でありながらも室町で戦国であることによって社会基盤の揺らぎが明確で、生きるのは個人の選択と力だよねという非常にさばさばした無常観と清々しさが背景にある、から
みたいです。いやあくまでわたし個人においてのことだけど!
もっと要素抽出できる気がするんだけどまだはまって日が浅いのでこの程度かな。
銀魂を単行本で買いだして一年後くらいにサイトをつくったので、忍たまは銀魂ほどの醸造期間がないと見た。
歴史と文学・勝者と敗者・大いなる物語と個人・世界と日常の関係、はずっと、このサイトにおける銀魂のテーマです。もう結論は出ているけれども。結論が見えたからこそサイトを始めたのだけれど。
ちゃんとお目にかけます。そのうち。
最後に蛇足ながら!
『ゼ/ロ年/代の想/像力』
宇/野常/寛
仮面ライダーの響鬼は放送版じゃなくてそっちの台詞をききたかったな!と思いました(偶然最終回だけ見て「おれについてこい」にえええっととなった)(なんじゃそりゃ、と)(でもこの台詞なら納得!)
なんの話してるんだかわからなくなりましたが、つまり銀魂は現代的な物語で、それでいてそれが非常に魅力的な作品である、ってことでいいんじゃないかと思います。
急いでたのに!もう二年も使ってる駅なのに!
でもブックファーストを見つけたので、帰りに寄ろう…と思いつつ急ぎました。遅刻でした。
帰りにブックファーストまでたどり着いて本を漁っていて、一冊サブカル論みたいなのを買いました。
ゼロ年代の批評ってあんまり見ない上に前時代的なのが多いな…と思ってたので、なんかそこらへんの。
読み終わったので、今日はその話。
カテゴリは「銀魂語り」っていうかこのサイトにおける二次創作で方法論として銀魂を選んだ理由、みたいな。あくまでわたし個人のだけど!なんかそんな。
内容を圧縮・置換・かいつまんで変換して・飛躍もありで語るのでたぶん本とはかけ離れた話になりそう。
90年代文脈は「父親=父性的なもの・権力・政治・世界が確固としてない=自分を正しく導いてくれない」の絶望で、
あと「父性の弾圧に敏感な人でも母性の抑圧には鈍感で、母性的世界観=子宮・転じてユートピアへの回帰願望とサザエさん現象には無批判」で、
現代はどっちかっていうと、父性がだめなら母性だ!とかいう議論も破綻してて、むしろ「親がなくても子は育つよ」、銀さんのいう「下の毛が生えたらてめーでてめーを育ててくもんだ」を肯定的にとらえ直すことによって成り立つんじゃないかってことになってて、
単位や構造としての「家族」の破綻はもはや当然で、というか前提であって、
家族=与えられるもの
から
疑似家族=自分で選択してその結果として得てゆくもの
になりつつある、それが現代における救いだ、と。
(ここまで読んだ段階で、あっそれぎんたまだよ、わたしそういうことを万事屋をとおして書きたかったんだよ、とか思ってたんですが)
(まだ先がある)
疑似家族というのは、血縁でもなく、地域でもなくまたはあり、地域=コミュニティは場所でありイデオロギーであり、何気ない時間を共有する間柄であり、それが現代における「物語」である、とするもので
恋愛=一対一の至上主義、ではない。
むしろ友情とか仲間意識とか、なんかそんな。
非日常や、
前時代的な「大いなる物語=バブル経済や終身雇用や武士道や、あらゆる社会基盤」がない、この現代には
既に日常しか残っておらず
しかしそれを絶望と定義するか、否か。
日常とは小さな物語の集まりであり、可能性であって
誰かが名付けてくれないからといって絶望するには及ばない
と、個人的にとらえなおすとこういうことを言っていたのですが
銀魂ってその要素満たしてるよね、と思って読んでました。
だから銀さんは戦後の世界の日常を生きてるんだよね、とか。
(ほんと蛇足ながら、ゼロ年代のカルチャーがどうだろうが、個人的にはそういうことがいいたくてものを書いてきた節がある。読みものとしてはどうだろうと思うけど説明としては「Hello hero」なんてまさにその類だと思う…)
最終章まで読み進めてあと終わり数ページに至って驚愕したのが、例に銀魂が引かれてたことです。
あれは愕然とした…まるっといいたいこといってくれてた…
以下抜粋。
たぶん、銀時は知っているのだ。この世界が既に「歴史が個人の生を意味づけてくれる(ロマンを備給してくれる)」親切設計を喪ってしまっていることを。そう、銀時は異星人に敗北していじけているのではなく、世界のしくみが変わったことを悟っているのだ。(中略)90年代的な文脈での「ロマンの喪失」は実のところ「ロマンの喪失」ではない。「世界(歴史)がロマンを与えてくれるという装置」の喪失なのだ。たとえば銀時がそうであるように、あるいは日常だけが残されたこの世界にロマンを見出すことは、そう難しいことではないはずだ。そして、銀時は今日も日常を生き続ける。
だから銀魂は侍の話でも現代の話なんだと思う。
これが本の最後の最後に来るっていうのがまた…非常に可能性を感じます。思えば要素盛りだくさんですしね。疑似家族とか。
自分が疑似家族(けっして家族ではない)に弱い一因がわかりました。前からわかってたけど。めぐりあわせと選び取ったものとしての関係だからみたいです。
あと最近よく語ってる忍たまは、また別の(現代を肯定できる)要素の詰まった物語みたいで。
権威の意味付けのない(ないからこその)楽しさ・関係・若さ=クラブ活動(学校のでも学外でも)
自分の好きなコミュニティに属していればいい現代において唯一強制的に義務的に接続される世界=学校
期間限定の永遠、終わるからこその素晴らしき日常、疑似家族=委員会・先輩後輩・教師と生徒・同じクラスの仲間という読み替え、
更に時代設定が室町で戦国。イデオロギーが現代ではない、ということ。
つまり現代以前=大いなる物語のある時代、でありながらも室町で戦国であることによって社会基盤の揺らぎが明確で、生きるのは個人の選択と力だよねという非常にさばさばした無常観と清々しさが背景にある、から
みたいです。いやあくまでわたし個人においてのことだけど!
もっと要素抽出できる気がするんだけどまだはまって日が浅いのでこの程度かな。
銀魂を単行本で買いだして一年後くらいにサイトをつくったので、忍たまは銀魂ほどの醸造期間がないと見た。
歴史と文学・勝者と敗者・大いなる物語と個人・世界と日常の関係、はずっと、このサイトにおける銀魂のテーマです。もう結論は出ているけれども。結論が見えたからこそサイトを始めたのだけれど。
ちゃんとお目にかけます。そのうち。
最後に蛇足ながら!
『ゼ/ロ年/代の想/像力』
宇/野常/寛
仮面ライダーの響鬼は放送版じゃなくてそっちの台詞をききたかったな!と思いました(偶然最終回だけ見て「おれについてこい」にえええっととなった)(なんじゃそりゃ、と)(でもこの台詞なら納得!)
なんの話してるんだかわからなくなりましたが、つまり銀魂は現代的な物語で、それでいてそれが非常に魅力的な作品である、ってことでいいんじゃないかと思います。
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