愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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ふとかなしいことだなぁと思ったのが。
誰にでも理想の終わり方、理想のぎんたまってのがあって、
前に土方好きで土沖許容で近藤さんあいしてるのやつと語ったときに、
やつが、「あまい理想だと思いつつも、近藤さんが結婚してもしなくても、いやしてくれてもいいんだけど、もしできるならしないで、それでも土方は俺はいいよとかいいながら一生近藤さん大事で結婚もしないで組の外にでないで沖田も生きてて、あのまんま死ぬまで真撰組はわいわいやっててほしい」と云っていて。
たとえば高杉すきで銀高すきのともだちなら、
「ないってわかってるけれども銀さんに高杉を救ってもらってみんなちゃんと笑って生きてってほしい。攘夷はみんなで一生馬鹿喧嘩して腐れ縁で生きてってほしい」
と云っていて。
そのときに、わたしの理想ってなんだろうって考えた。考えるまでもなくわかった。わかったけれどなんだかとても哀しくなった。
わたしの理想は、
銀さんはいずれ去るひとだと思ってる。原作でそういうふうな終わり方にはしないのをわかっていて、それでも神楽ちゃんや新八を見送って、最後にはひとり去るのだと思う。そのときにその背中を見送るのはお登勢さんだと思ってる。原作という物語の外側でのはなし。
で、何年も経って消息も不明で、どうしてるのかなんて知る術もなくなって、
それでもたとえば沖田がふっと空を見上げて、神楽ちゃんがどこか宇宙の片隅で何てことないときに、
ああ、そんなこともあったなぁ、そういえばどうしてるのかなぁ、なんて、
一瞬思いを馳せては、土方にこら余所見するなとか、パピーに神楽ちゃん行くぜとかって声かけられて、
なんでもないですよ、はーい今行くってこたえて、
その一瞬後には忘れるようなものでも、
ずっとずっと、後になっても、ふとした瞬間にふっと思い出すような、
生きてるか死んでるかわからない。どうしているかもわからない。
けれども、わからないからこそ、思い出すものが感傷に彩られても鮮明だったりして。
すごく愛しく思っているのでなくてもいい。何となく影がよぎって、あれなんだったっけと訝しく思うのでもいい。
何ら特別な感情を抱いてなくても、それでも、時々思い出すことがあるといい。
沖田だったり神楽ちゃんだったり、桂だったり土方だったり、お妙さんだったり長谷川さんだったり。
誰でも。誰もが。一年に一回でも数年に一回でも、一生に一回でもあったとしても。
そんなふうにどっかでちょっとずつ思い出して、そうしてそれぞれ二度と会うことがなくとも、生きてくといい。
…というのが理想だよ、と云ったら、土方すきは「お前それ原作そのまんまだよ」と云った。えっそう?
「それは何ら空知の描くぎんたまと離れてないよ。なんもずれてない。きっとそうなる。理想形っていうよりいずれ訪れる未来の話だよ」、と。
あまりにただしくて泣きたくなりました。だってつまり、わたしは現状以上を望んでいないということ。望んでいる世界と望まずともある世界とがかぎりなく一致するということ。
自分自身に、わがままになりなよと云いました。が、それが理想なのだもの仕方ない、という答えが返ってきました。そうか。
スタンスの部分だけ銀さんに感情移入するところがあります。というより共感か。
なので、恐らくわたしが銀さんの死後のはなしを描くということ、彼の不在を思い描くということはどういうことなのかが自ずとわかってしまいました。
わたしが銀さん不在の世界を描くことで見たかったものは、
わたし不在の景色です。
そうか、去るんだなぁと思いました。いつかぜんぶ置き去りに去るんだ。
できるなら最後にきちんとさようならの挨拶ができるといい。
いいや、さよならなんて云わないことにしよう。そのくらいの後悔が残ってたほうがいい。お似合いだきっと。
土方すきに「そのままだよ」と云われたとき、お前の望みはかなうよと云われた気がした。でもこれはけして幸福な理想ではないのに。
そこだけひとつ哀しいと思ったのだけれど、それでも「仕方ないよ」とわたしのどっかは答えたので、
そうだねこれは現実を離れたひとつの理想だものねとわたしも答えた。
寝しなに頭をよぎったひとつの理想のかたちについてのこと。
誰にでも理想の終わり方、理想のぎんたまってのがあって、
前に土方好きで土沖許容で近藤さんあいしてるのやつと語ったときに、
やつが、「あまい理想だと思いつつも、近藤さんが結婚してもしなくても、いやしてくれてもいいんだけど、もしできるならしないで、それでも土方は俺はいいよとかいいながら一生近藤さん大事で結婚もしないで組の外にでないで沖田も生きてて、あのまんま死ぬまで真撰組はわいわいやっててほしい」と云っていて。
たとえば高杉すきで銀高すきのともだちなら、
「ないってわかってるけれども銀さんに高杉を救ってもらってみんなちゃんと笑って生きてってほしい。攘夷はみんなで一生馬鹿喧嘩して腐れ縁で生きてってほしい」
と云っていて。
そのときに、わたしの理想ってなんだろうって考えた。考えるまでもなくわかった。わかったけれどなんだかとても哀しくなった。
わたしの理想は、
銀さんはいずれ去るひとだと思ってる。原作でそういうふうな終わり方にはしないのをわかっていて、それでも神楽ちゃんや新八を見送って、最後にはひとり去るのだと思う。そのときにその背中を見送るのはお登勢さんだと思ってる。原作という物語の外側でのはなし。
で、何年も経って消息も不明で、どうしてるのかなんて知る術もなくなって、
それでもたとえば沖田がふっと空を見上げて、神楽ちゃんがどこか宇宙の片隅で何てことないときに、
ああ、そんなこともあったなぁ、そういえばどうしてるのかなぁ、なんて、
一瞬思いを馳せては、土方にこら余所見するなとか、パピーに神楽ちゃん行くぜとかって声かけられて、
なんでもないですよ、はーい今行くってこたえて、
その一瞬後には忘れるようなものでも、
ずっとずっと、後になっても、ふとした瞬間にふっと思い出すような、
生きてるか死んでるかわからない。どうしているかもわからない。
けれども、わからないからこそ、思い出すものが感傷に彩られても鮮明だったりして。
すごく愛しく思っているのでなくてもいい。何となく影がよぎって、あれなんだったっけと訝しく思うのでもいい。
何ら特別な感情を抱いてなくても、それでも、時々思い出すことがあるといい。
沖田だったり神楽ちゃんだったり、桂だったり土方だったり、お妙さんだったり長谷川さんだったり。
誰でも。誰もが。一年に一回でも数年に一回でも、一生に一回でもあったとしても。
そんなふうにどっかでちょっとずつ思い出して、そうしてそれぞれ二度と会うことがなくとも、生きてくといい。
…というのが理想だよ、と云ったら、土方すきは「お前それ原作そのまんまだよ」と云った。えっそう?
「それは何ら空知の描くぎんたまと離れてないよ。なんもずれてない。きっとそうなる。理想形っていうよりいずれ訪れる未来の話だよ」、と。
あまりにただしくて泣きたくなりました。だってつまり、わたしは現状以上を望んでいないということ。望んでいる世界と望まずともある世界とがかぎりなく一致するということ。
自分自身に、わがままになりなよと云いました。が、それが理想なのだもの仕方ない、という答えが返ってきました。そうか。
スタンスの部分だけ銀さんに感情移入するところがあります。というより共感か。
なので、恐らくわたしが銀さんの死後のはなしを描くということ、彼の不在を思い描くということはどういうことなのかが自ずとわかってしまいました。
わたしが銀さん不在の世界を描くことで見たかったものは、
わたし不在の景色です。
そうか、去るんだなぁと思いました。いつかぜんぶ置き去りに去るんだ。
できるなら最後にきちんとさようならの挨拶ができるといい。
いいや、さよならなんて云わないことにしよう。そのくらいの後悔が残ってたほうがいい。お似合いだきっと。
土方すきに「そのままだよ」と云われたとき、お前の望みはかなうよと云われた気がした。でもこれはけして幸福な理想ではないのに。
そこだけひとつ哀しいと思ったのだけれど、それでも「仕方ないよ」とわたしのどっかは答えたので、
そうだねこれは現実を離れたひとつの理想だものねとわたしも答えた。
寝しなに頭をよぎったひとつの理想のかたちについてのこと。
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