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最近、足しげく通ってるサイトさまがみんなしてACIDMANゆってるので気になります。明日あたり借りに行ってみようか。
中二のときに、おともだちからBUNPのCDを借りたんです。リビングデッド。
当時の印象。は、「恐っ!これ、恐っ!」でした。
友人間では「K」が評判でした。わたしは歌詞カードの「丘の上で男が首吊り」の絵(記憶が曖昧なのでたしかそんなん)にびびってそれどころじゃあなかった笑
そしてまだMDを持ってなかったのでカセットテープ(古いな!)に録っておいたっきり仕舞いこんで、それっきり。弟がBUNPにはまらなかったらきっと半永久的に戸棚の中だった。
1,2年ほど前に弟がはまって、なんかきいたことあるなと思って調べたら案の定。あの頃はまだ全然流行ってるわけでもなかったので、あの友人はけだし慧眼だったということになるわけです。
彼女とわたしはまるっきりアンテナの向いてる方向が違うし、たんに情報収集の場が違うってことでそんなに驚くことじゃないのかもしれないけれど。悪魔のオロロンもだし楠木まき氏の場合もそうだし、思いもつかないものを持ってくる子です、いまだに。でも同じことを別ルートで知ってるっていうのはままある。そうすると持ってる情報がそれぞれ偏ってたりしておもしろい。
京極氏の巷説百物語なんて、わたしは原作、彼女はWOWWOWでの放送で監督が堤氏、という偏りっぷり。間違ってるわけじゃなくて情報源から生じる違いがとってもおもしろい。その違いにこそ彼女とわたしの差異がある。
そういえば去年北海道のわたしのところまできて数日間遊びまわって、東京の彼女の家に泊まったりとかしてなんだかんだずうっとべったりだったけど、喧嘩したおぼえがない。「どんな仲良いこ同士でもべったりだとぷっつんいくものよ」というけれど。それなら、うん、無理をしいてしまったのかなぁとか思います。いや、実際どうかわからないけれど。なぁなぁな性格はお互い様なので。それぞれ適当に時に応じて曲げてれば、それで曲がることに抵抗がないなら、案外うまくいくもんかなあなんて思ったり。
えーと、なにがいいたいかというと。今BUNPを聴き流してますということです。(それだけのことに何故こんなに長くなる)
さっきテレビをつけたらBLOOD+の最終回だった。そうか、そうなったのか(なにが)
BLOODっていうと血まみれみつあみ少女小夜(刀でセーラー服でこわい顔してる)文庫本のイメージ先行です。数年前にどこぞの雑誌の連載であった。読んでたけど、こわかったー。あれはこわかった。+では小夜のキャラクターの違いに呆然としたおぼえがある。
最終回ってのはいつも無意味にほっとする。なんでかな。空知のように「待ってくれ!」とならないのは。そこに二次と一次とはいえ表現者としての違いがある気がするんだけど。単純に欠落部位の問題か。
創作者は欠落部位を埋めるために想像で補って創造行為をしてるというのは、あながち間違いでもないと思うのだよなぁ。
「感動するというのは脳が傷付くということ。その壊れたものを修復しようとするとき、創造がうまれる」。茂木氏の言だけど。脳科学者のいうことはおもしろい。
けど欠落にぴったりはまるものはないと思うなー。だからないものねだりにも思えて…うーん、けどまずはそこから始まるんだって考えたら、あながち…不毛でもないのかな。
これらは創作行為の過程にあるものだけど、それを結果にしたらその時点で不毛なものになっちゃうのかね。けどまぁ、創作者っていうのはどっちにしろ、えらいさびしんぼうにかわりはない、と。