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愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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ねたばれにならないあにめのねたばれです。


おおふり
田島が打ったーーーーー!





モノノ怪>化猫
あっダメだ何がなんだかわかりゃしねぇ。





ちゅうかですね…モノノ怪のあとにおおふりで、落差が激しいうえにクララが立った田島が打ったのでもうテンションがよくわからない状態になってます。
化猫は、うん。
色々つっこみたいこととかあるんだけどわからなすぎて何ともいえない。
情報は出揃った段階で吟味するものなんだ…
材料を吟味するのと料理を吟味するのとは別の意味があるんだもんね。

モノノ怪サイトさんをめぐってきました。楽しかった。
考察もちょいちょい見かけたり。海坊主とのっぺらぼうに共通の絵(海坊主じゃさかさまになってるやつ)は「これもしかして元ネタというかオリジナルがあるんじゃ」と思ってた(だって異彩はなってた)んで疑問氷解して気持ちよい。そうなんだ。異種族の交配とか考えてたよ。だって海坊主。
あと明らかになってうれしかったのが、鵺の犬と東大寺。というか欄奈持(字が多少違ってるかもしれないのは変換でないんでご愛嬌ってことで)に「欄奢持」というちゃんとした元ネタ(というかオリジナル)があったこと。犬は伊東若冲、らしい。調べたのみたらたしかにそれぽい。そしていっぱい描き過ぎあの犬。


一話一話考察いれてきたい。たぶん途中から考察じゃなくってもえ語りになるけど。
薬売りについてしゃべりたい。


うあ、モノノ怪の化猫みてからだとまた解釈変わるかな。変わってからのほうがいいのか現在進行形で暫定的に答えだしとくべきなのか。
バイト疲れと深夜あにめのおかげで手が勝手に動きます。明日あがってきて記事みて「うわあ意味わからない」とならんようがんばってきます。うん。

ついでにわたしのなかで薬売りのキャラが二極化してる。人間か「薬売り」という存在か、怪「化猫」かモノノ怪か。あとは脚本もそうだけれども話ごとに揺らぎがある。それを矛盾ととるか人間だもの(@みつを)ととるか。



なんか、気が付いてたんですけど、わたしの解釈の仕方。ぎんたまもおおふりも、あれを銀魂という作品、おおきく振りかぶってという作品、というところから俯瞰して見てない気がする。
あれらを作品じゃなくてああいう世界としてみてる気がする。

銀さんとか三橋を、「キャラクター」じゃなくて「人間」の観点から見てる気がする。

いいとか悪いじゃなくて。そういう見方をしてる気がする。

デスノはまた違うのかもしれないな…いや、デスノこそこの極致にあるのかもしれない。前にデスノ語りでちょろっといったんですが、「Lと月の関係性」でかなりの部分説明ついちゃうんだよなぁと。
作品のなかにおける善悪が彼らにそれぞれ分けられて仮託されてるっていうのが意図的じゃなんじゃないかなぁなんて思ってしまうから。勿論それらは容易にいれかわるんですが。Lは正義の象徴だけれどもあの圧倒的な権力はそれ自体は力で用いようによっては暴力的ですらあるよなとか、月の偽善と独裁と優しさからくる神的視点からの正義はそりゃ客観的視点から見て「悪である」と我々もしくLが断罪しなきゃいけないものだけれども弱者が虐げられるのを容認できないというところから始まった気がする月の情念みたいな最初の部分は否定もできなくて。とか。いいはじめるときりがない。

で、何がいいたいかというと、だからわたしはLと月でふぉもが書けたんではないのかなって。
あれをふぉもといえるか!ていわれたらはいぬるいですスイマッセンとしかいいようがないんだけど。いやね、Lと月もそうかもしれないんだけど、ぎんたまとかおおふりはふぉもにする必然性がなくって。

少なくともわたしの作法でやるならってことですが。カップリングにする必要性がないんです。恋愛にする必要性、がない。
そのラインじゃなくても示せるものを示そうとしてる気がするんで。
これちょう考えた。書きたいと思ったんならもう必要性なんて満たしてるんだけど、書くべきか無理してでも書くのか書かないのか。考えた。

書きたいもん書いてりゃいんじゃね?ということで書いてませんが。
インプットとアウトプットの接続が不良です。あんなにふぉもインしてんのに。


はなしもどして。

作品じゃなくて、物語。キャラクターじゃなくて、人間。
そういうふうに見てる気がします。
ちょっと距離が近い。それがいいことなのか悪いことなのかは、…判じかねますが。
某旻氏にいわれたんですねん。看破されて自覚したむきもあったり。「視点が近い」。ほんとにそれがいいことなのか悪いことなのか。
常に自分自身に懐疑的です。よくも悪くも。
完全とか完璧は西洋的な考え方だし概念だなあと思ってる性質なので、白と黒とか100%とかの区切りはないです。ので、「それとこれとは別」の他に「よくも悪くも」を口癖にくわえたいと思います。これ結構つかってるわわたし。それこそほんとに「よくも悪くも」。



ああ、はなしが前後するんだけど。


この「人間ていう観点」から見てるので、「怪とモノノ怪で薬売りの性格が変わってる」「話によって、脚本によって、薬売りのキャラクターが一定してない」というのは、気になるほどのことでもありませんでした。薬売りっていう存在が人間でなくても(モノノ怪の化猫の時間軸考えるとどうもそれぽいですが)それでも、えーと、人格?とか性格?とか。そういうのは一定したもんじゃないし常に揺らぎがあるものと規定してるんで、多少そぐわない行動しても整合性がとれちゃうむきがあります。

なんで人格とか性格とかいうことばに懐疑的なのっていわれたら、それは定義によっていくらでも意味が変わることばだからです。わたしはそれを固定されたものだとは思ってません。確固としたものだとも思ってません。たとえるなら、器のなかの水だと思ってます。
揺らいでる。揺らぐものなんですそういうもんは。
気分屋でなくても状況によって対外的で表面的な部分はいくらでも変わるものだし。
脳と身体ありきのこころ。こころあっての魂。そういうもの。

…とかいう話をするとニューロンの申し子について語りたくなります。誰それって?ネウロです。
あのテーマは「人間」なんですよねきっと。すごいおもしろい。うああ、おもしろい。
まあそれはおいといて。


あ、そうだちょっとわかったかもしれない。
ときどきバトンとかで他所の管理人さまからいわれることで、「たまに全然違う顔をみせる」とかそれに類するのがあるんですが、たぶんそれはわたしが、「わたし自身というものの整合性などあとからついてくる」と思ってる節があるから、なのか、な?
ほんとに、それはそれこれはこれ。
あっちでふぉもやっててもこっちでヘテロやってても、混ざらないし、混ざったものはまたそれと別にあるよっていう、ことなんだろうかな。


図画工作。パレットで必ず絵の具が他の絵の具と混ざらないように出してつかってた。混ぜるときは別のところで。原色は原色としてとっておく。使った色がぜんぶパレットにそのまま残ってる。

食事はワンプレートも好きだが、コロッケのソースがサラダにかかるのはいやで、サラダのドレッシングが揚げ物に混ざるのもどうかなぁと思ってた。


あっなんだ、昔っから変わってないじゃないか。
でもパレットは使ってるうちにそうなってるっていうのであって、意識的にきれいに使おうとしてたわけなじゃないんです。だからこそなのか。
個人的には、あるともだちの、ぐっちゃぐっちゃのもとのパレットの色みえてないよー的なのがすっごい好きだった。あのカオス。だいすき。
自分じゃできないんだけど。
汚い色が手元に残って、きれいなものとそうでないものを混ぜ合わせたすべてがそこにある絵を描く子だった。


うん?ちょっとこの遣りかたの限界が見えたな。
あらかじめ限界を設定することでその境界内で十全に振舞える…
という彼の遣りかたをとってみるかねどうするかね。
とはいえ彼とわたしの遣りかたは違うものなんだろうけれども(境界が違うのかな、どうなのかな)。



だんだん違うこといってる気がするので寝ます。明日みて自分でひくような雑記なんだろうか。今のところ整合性はとれてないものの、あとから整合性がわかるようになってるとは思うんだけど。
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