愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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おばんです!ツイッターが楽すぎて向こうでよく感想ぼろぼろしてます。
でも本誌と完結篇ネーム本がすごすぎて最近はふせったーで伏せて呟いてます…こっちでまとめればいいやと思いつつ不精してこんなに間が。
ネーム本まとめは絶対にやりたい(やらずにおれない)んだけども最近の本誌ちょこっと。
いわずもがなネタバレなので単行本派は見ないが吉。
夏くらいに始まったこの長篇もほんと長くてもう冬です。冬!そしてほぼ確実に年またぐ。
ツイッターだとおもしろいくらいにフォロワーの銀魂クラスタが続々と墓に入ってゆき爆裂四散して阿鼻叫喚…の悲鳴も起こらない有り様です。焼け野原です。ぺんぺん草も生えてない。
ただわたしは未だ…そこまでのダメージを受けてないんですけど。
具体的に何を想像してたってわけじゃなくても、銀魂っていう物語の縦軸をなぞっていき、それがシリアスなら、いつか必ず来るものが今日来た。そういう感じです。特に神威神楽と高杉銀さんの対峙。
箇条書きで。
・松陽先生
ずっとこの人のことがわからなくて。故人だから知りようがないっての差し引いて、そうじゃなくて、「銀さんに先生と呼ぶような絶対的な影響を受けた人がいたなんて今の彼から想像出来ない」って話で。
銀さんの口から先生の話が出てきたことがない。月詠の師匠のときも、松陽先生のことを知らなければ一般論としての師匠弟子の話を口にしただけと見てもいいくらい。
俺家族いないからねみたいなことをさらっと口に出す癖に、先生関連は日常のどの場面でもぜんぜん出てこない。紅桜以前だけならまだしも、以後も。
だから銀さんにとっての先生の比重がわからなくて。絶対根幹にはいるだろうに、何も言葉にされない。松陽先生のことは紅桜のときに桂の口から読者に知らされ、あの時点で銀さんは先生がどうとかそういう話は一切してない。
銀さんの口から松陽先生のことが聞けるのは傾城篇です。やっと。
「先生によろしくな」です。それも「地獄」です。
それも正直あんまり重くとらえてませんでした。というか、
高杉も銀さんも、恐らく、天国なんてねーよって言うタチで、じゃああの世はないのかっていうと、知らねェけど地獄ならあるんじゃねーのって言いそうで、まぁ言いまわしのひとつかなと。
空知先生は台詞回しに重きを置いてるけど、細かい台詞はともかく流れとしてこういうふうなことを言わせるみたいなのはそこに行くまでに大体決まってる、みたいなことを言ってたあれ。ニュアンスとしてあの世で先生によろしくしとけやこの野郎みたいなのが伝わればみたいな。
松陽先生は地獄行きなのか?ってあたりは先生のことがぴんときてなかったせいもあって棚上げしてました。
今どう思ってるか?今は…たぶん本誌では来週かその次くらいに開示される、別視点からの松陽先生の話を読んだら、もう少しちゃんとかたまると思います。
個人としての吉田松陽よりも故人としての吉田松陽の比率が今はわたしの中で大きいです。像として。
・松下村塾
銀さんが一番弟子で桂高杉が弟弟子だとは。
しかも先生と銀さんが流れ者だったとは。
あと思ったより銀さんと先生が対等でした。銀さんの「松陽」呼び!
今でも本誌でアイツ呼ばわりしてるし。
ここでかかったです。10代前半ってことしか確定してないけど、既に人格形成済んでる子銀が小さくてもただの銀さんで、なんとなくほっとしました。
何も知らないまっさらな子銀に先生が保護者として親代わりとして、桂高杉が最初の友人として、色々教えて与えて一緒に育ってく、っていう二次が多くて、というか村塾に関してはそれが主流で、なんとなくずっとぴんときてなかったので…
そういう何かしら守られて育まれてきた記憶があるなら、銀さんは「俺家族いないし」と言うだろうか。「俺ァ欲しかったよあんたみたいな家族が」と言うだろうか。
先生は先生であって親代わりでも家族でもないんだろうな、ってずっと思ってたので、松陽呼びは驚きましたが納得でした。二人の流れ者同士なのか。
村塾で更に驚いたのが、桂が天涯孤独だってことです。
でも、よく考えなくてもそうじゃなきゃ、桂は攘夷活動なんてやってないだろうな。家族が存命なら実家に迷惑がかかることは絶対出来ない気がする。
高杉は勘当された身なのは坂陸奥篇のときの回想から明らかになってましたが、いま彼のご実家どうなってるんでしょう。まぁ帰る場所があったら今の高杉ああなってないよねとはひとと話して深く頷いた。
・銀さん
わたしは最初から、恐らく最後まで、銀さんクラスタです。
なんだけど、あの斬首
初見で読んでるときに声が出ましたけど、納得しかなくて
ああ、そっか。だから銀さんなんだ。だからこの人こういうひとなんだ…
みたいな。
銀さんが、絶対に埋められない損失や喪失を抱えた人だというのは、ずっと周知の事実で、
それは何故かと問われたら、戦場の英雄だったからだと
英雄というのは一人ではなく百人千人を殺した者だと
でも戦場の英雄ではあっても戦争の英雄ではなく、つまり敗戦を、挫折を経て生きている、生き残ってしまった人だと
ずっとそう思ってたからなんですね。
でも実際描かれてみたら、生き残ったは生き残っただけど、消極的に消去法で生き残ったとか死に損なったのではなく、極めて明確な意志を以って選択した結果の生なのだと。文字通り誰かの死の上に成り立つ生なのだと。
ここまで突き詰められた選択の結果だとは思わなくて。
刃物の先端みたいに、それまでの因果がすべてそこに結実してる。と同時に、それからの十年そこにいたすべての人間が何らかの形で縛られてる。過去と未来の因果の結実。
それがあの斬首。
銀さんがどういう人かっていう話で、わたしはずっと根幹に「無力感」がある人だと思ってました。
「いつか自分の持てるものの少なさに愕然とする日が来る」って意味の無力感。自身の無力を腹の底から味わったことのある人という意味。
それは敗戦のあと、戦後を生きてる人だということにも立脚してて。
だから、出来なかったことや自分の手の届かなかったことを悔いる人だと思ってたんですね。悔いるなんて言葉で表現するのはちょっと違うかもしれないけど。
それが、某氏も仰ってましたが、出来なかったことではなくしてしまったことを悔いにしていたのだ、とわかってしまって。
選択の余地がない場面でした選択も、己が選択として、死ぬまで抱えてゆく気でいるんだな。
銀さんにとってはその選択の功罪を己が血肉として生きていくことは、当たり前のことなんだな。
と改めて思って、とても、なんというか…
ああよく知っている、銀さんだ。と思いました…
言い訳しないのみならず、自分の手で救おうとした師の首を斬ったことを、まるごと抱えて今も笑ったり飯食ったりぼやいたり寝たり起きたり馬鹿やったり喧嘩したりして普通に生きている。
こどもと犬なんていう平和の象徴みたいなものと暮らして。
間違ってるとか正しいとか通り越して、己の行いを正当化もしなければ、罰にも傷にもしないで罪を罪として背負って「普通に」生きてる。息してる。
なんて遥かな道だろう。こんなところに辿りつける人がいるんだろうか。
高杉がああなってしまったことは、なんというか、十年て遥かだよそんなに思いつめるなよ、と思うと同時に、でも銀さんのような生き方は銀さんにしか出来ないので、鬱屈したり憎悪したりしてもしょうがないよ、とも思います。憎悪もWhyもすべてを含んで、高杉はきっと銀さんに向かい合いたかったし向かい合わねばならなかった。いずれ来る対峙って思ってたのはそういう。
幕府を世界を恨んだこともあったし我慢ならなくて行動にうつして、あんなことがあってそれでも幼馴染の友人として昔馴染みの馬鹿として腐れ縁の護る背中のひとつとして、銀さんを追い求めずにはいられなかったのは桂も高杉も一緒で、
桂が穏健派に方向転換できたのは1巻だか2巻で銀さんに再会出来てたからだよ、って思いました。
桂は会いたければ会いに行ったし、幕府いやあいつらタコ殴りにしたいから世の中変えようぜって誘いに来たし、真正面から銀さんと向かい合って攘夷活動しようぜ何でしないんだよって、訊いたし、銀さんも答えた。
あの三人が先生の斬首のあとどのくらい一緒にいたのか(一緒にいるとか無理だろう)、終戦っていつなのか。なんとなく高杉はあの斬首あとはもう三郎花火まで銀さんと会ってないイメージ。一言二言くらいどっかで交わしてはいるかな。
高杉は銀さんに会いに来るべきだった。行きつくところまで行く前にまず、銀さんに会って言葉でも刀でも拳でもぶつけてぶつかって怒鳴って泣いて、互いがどんなに傷ついているか知り抜いてても、傷つけあってでも向かい合わなきゃいけなかった。
いま本誌であんなに血みどろになりつつ拳でやりあってますけど、十年なんて待たないで、十年前の時点でああしていれば、違ったこともあったんじゃないかと思いました。いや無理だろうけど。
銀さんの涙(恐らく高杉しか目にしてない)を見て尚そんなことが出来るとは思えないし、見てしまったからこそ憎むし憎めないし。
関係性が木端微塵になってでもあの時点で向かい合う勇気や気力や意志なんて、逆立ちしても出てこないよって思います。むり。
悪戯に長くなるばかりでちっともまとまらないですね。
もう次のジャンプが出てしまう。
こっから私事なんだけどどっかに書いておきたいからちょっとだけ。
ごめん重い話だと思います。
今日知らせがきて、伯父が亡くなったらしいです。
ここ数年会ってなくて、でも同じ東京に住んでることは知ってた。もう年だし疾患抱えてるし癌家系だしで親戚みんな覚悟はしてました。でも一度くらい見舞いに行きたかった。
行きたかったで終わってしまった。
人は死んでしまう。それを実生活に迫ったリアルな方からも背負った気分です。今更ですが。
家族を作らなかった人なので、死後のアパートやら組合やら葬式やらの整理調整はぜんぶ親戚でやるようです。つまりわたしも駆り出される。
人はすぐに死んでしまう。そしてそれは順番通りとは限らない。
よくそういうことを考えます。
だから悔いないように、悔いがあっても、抱えて生きる他ないんだなぁと、ぎんたまからもそうじゃない方面からも、思いました。作文。
でも本誌と完結篇ネーム本がすごすぎて最近はふせったーで伏せて呟いてます…こっちでまとめればいいやと思いつつ不精してこんなに間が。
ネーム本まとめは絶対にやりたい(やらずにおれない)んだけども最近の本誌ちょこっと。
いわずもがなネタバレなので単行本派は見ないが吉。
夏くらいに始まったこの長篇もほんと長くてもう冬です。冬!そしてほぼ確実に年またぐ。
ツイッターだとおもしろいくらいにフォロワーの銀魂クラスタが続々と墓に入ってゆき爆裂四散して阿鼻叫喚…の悲鳴も起こらない有り様です。焼け野原です。ぺんぺん草も生えてない。
ただわたしは未だ…そこまでのダメージを受けてないんですけど。
具体的に何を想像してたってわけじゃなくても、銀魂っていう物語の縦軸をなぞっていき、それがシリアスなら、いつか必ず来るものが今日来た。そういう感じです。特に神威神楽と高杉銀さんの対峙。
箇条書きで。
・松陽先生
ずっとこの人のことがわからなくて。故人だから知りようがないっての差し引いて、そうじゃなくて、「銀さんに先生と呼ぶような絶対的な影響を受けた人がいたなんて今の彼から想像出来ない」って話で。
銀さんの口から先生の話が出てきたことがない。月詠の師匠のときも、松陽先生のことを知らなければ一般論としての師匠弟子の話を口にしただけと見てもいいくらい。
俺家族いないからねみたいなことをさらっと口に出す癖に、先生関連は日常のどの場面でもぜんぜん出てこない。紅桜以前だけならまだしも、以後も。
だから銀さんにとっての先生の比重がわからなくて。絶対根幹にはいるだろうに、何も言葉にされない。松陽先生のことは紅桜のときに桂の口から読者に知らされ、あの時点で銀さんは先生がどうとかそういう話は一切してない。
銀さんの口から松陽先生のことが聞けるのは傾城篇です。やっと。
「先生によろしくな」です。それも「地獄」です。
それも正直あんまり重くとらえてませんでした。というか、
高杉も銀さんも、恐らく、天国なんてねーよって言うタチで、じゃああの世はないのかっていうと、知らねェけど地獄ならあるんじゃねーのって言いそうで、まぁ言いまわしのひとつかなと。
空知先生は台詞回しに重きを置いてるけど、細かい台詞はともかく流れとしてこういうふうなことを言わせるみたいなのはそこに行くまでに大体決まってる、みたいなことを言ってたあれ。ニュアンスとしてあの世で先生によろしくしとけやこの野郎みたいなのが伝わればみたいな。
松陽先生は地獄行きなのか?ってあたりは先生のことがぴんときてなかったせいもあって棚上げしてました。
今どう思ってるか?今は…たぶん本誌では来週かその次くらいに開示される、別視点からの松陽先生の話を読んだら、もう少しちゃんとかたまると思います。
個人としての吉田松陽よりも故人としての吉田松陽の比率が今はわたしの中で大きいです。像として。
・松下村塾
銀さんが一番弟子で桂高杉が弟弟子だとは。
しかも先生と銀さんが流れ者だったとは。
あと思ったより銀さんと先生が対等でした。銀さんの「松陽」呼び!
今でも本誌でアイツ呼ばわりしてるし。
ここでかかったです。10代前半ってことしか確定してないけど、既に人格形成済んでる子銀が小さくてもただの銀さんで、なんとなくほっとしました。
何も知らないまっさらな子銀に先生が保護者として親代わりとして、桂高杉が最初の友人として、色々教えて与えて一緒に育ってく、っていう二次が多くて、というか村塾に関してはそれが主流で、なんとなくずっとぴんときてなかったので…
そういう何かしら守られて育まれてきた記憶があるなら、銀さんは「俺家族いないし」と言うだろうか。「俺ァ欲しかったよあんたみたいな家族が」と言うだろうか。
先生は先生であって親代わりでも家族でもないんだろうな、ってずっと思ってたので、松陽呼びは驚きましたが納得でした。二人の流れ者同士なのか。
村塾で更に驚いたのが、桂が天涯孤独だってことです。
でも、よく考えなくてもそうじゃなきゃ、桂は攘夷活動なんてやってないだろうな。家族が存命なら実家に迷惑がかかることは絶対出来ない気がする。
高杉は勘当された身なのは坂陸奥篇のときの回想から明らかになってましたが、いま彼のご実家どうなってるんでしょう。まぁ帰る場所があったら今の高杉ああなってないよねとはひとと話して深く頷いた。
・銀さん
わたしは最初から、恐らく最後まで、銀さんクラスタです。
なんだけど、あの斬首
初見で読んでるときに声が出ましたけど、納得しかなくて
ああ、そっか。だから銀さんなんだ。だからこの人こういうひとなんだ…
みたいな。
銀さんが、絶対に埋められない損失や喪失を抱えた人だというのは、ずっと周知の事実で、
それは何故かと問われたら、戦場の英雄だったからだと
英雄というのは一人ではなく百人千人を殺した者だと
でも戦場の英雄ではあっても戦争の英雄ではなく、つまり敗戦を、挫折を経て生きている、生き残ってしまった人だと
ずっとそう思ってたからなんですね。
でも実際描かれてみたら、生き残ったは生き残っただけど、消極的に消去法で生き残ったとか死に損なったのではなく、極めて明確な意志を以って選択した結果の生なのだと。文字通り誰かの死の上に成り立つ生なのだと。
ここまで突き詰められた選択の結果だとは思わなくて。
刃物の先端みたいに、それまでの因果がすべてそこに結実してる。と同時に、それからの十年そこにいたすべての人間が何らかの形で縛られてる。過去と未来の因果の結実。
それがあの斬首。
銀さんがどういう人かっていう話で、わたしはずっと根幹に「無力感」がある人だと思ってました。
「いつか自分の持てるものの少なさに愕然とする日が来る」って意味の無力感。自身の無力を腹の底から味わったことのある人という意味。
それは敗戦のあと、戦後を生きてる人だということにも立脚してて。
だから、出来なかったことや自分の手の届かなかったことを悔いる人だと思ってたんですね。悔いるなんて言葉で表現するのはちょっと違うかもしれないけど。
それが、某氏も仰ってましたが、出来なかったことではなくしてしまったことを悔いにしていたのだ、とわかってしまって。
選択の余地がない場面でした選択も、己が選択として、死ぬまで抱えてゆく気でいるんだな。
銀さんにとってはその選択の功罪を己が血肉として生きていくことは、当たり前のことなんだな。
と改めて思って、とても、なんというか…
ああよく知っている、銀さんだ。と思いました…
言い訳しないのみならず、自分の手で救おうとした師の首を斬ったことを、まるごと抱えて今も笑ったり飯食ったりぼやいたり寝たり起きたり馬鹿やったり喧嘩したりして普通に生きている。
こどもと犬なんていう平和の象徴みたいなものと暮らして。
間違ってるとか正しいとか通り越して、己の行いを正当化もしなければ、罰にも傷にもしないで罪を罪として背負って「普通に」生きてる。息してる。
なんて遥かな道だろう。こんなところに辿りつける人がいるんだろうか。
高杉がああなってしまったことは、なんというか、十年て遥かだよそんなに思いつめるなよ、と思うと同時に、でも銀さんのような生き方は銀さんにしか出来ないので、鬱屈したり憎悪したりしてもしょうがないよ、とも思います。憎悪もWhyもすべてを含んで、高杉はきっと銀さんに向かい合いたかったし向かい合わねばならなかった。いずれ来る対峙って思ってたのはそういう。
幕府を世界を恨んだこともあったし我慢ならなくて行動にうつして、あんなことがあってそれでも幼馴染の友人として昔馴染みの馬鹿として腐れ縁の護る背中のひとつとして、銀さんを追い求めずにはいられなかったのは桂も高杉も一緒で、
桂が穏健派に方向転換できたのは1巻だか2巻で銀さんに再会出来てたからだよ、って思いました。
桂は会いたければ会いに行ったし、幕府いやあいつらタコ殴りにしたいから世の中変えようぜって誘いに来たし、真正面から銀さんと向かい合って攘夷活動しようぜ何でしないんだよって、訊いたし、銀さんも答えた。
あの三人が先生の斬首のあとどのくらい一緒にいたのか(一緒にいるとか無理だろう)、終戦っていつなのか。なんとなく高杉はあの斬首あとはもう三郎花火まで銀さんと会ってないイメージ。一言二言くらいどっかで交わしてはいるかな。
高杉は銀さんに会いに来るべきだった。行きつくところまで行く前にまず、銀さんに会って言葉でも刀でも拳でもぶつけてぶつかって怒鳴って泣いて、互いがどんなに傷ついているか知り抜いてても、傷つけあってでも向かい合わなきゃいけなかった。
いま本誌であんなに血みどろになりつつ拳でやりあってますけど、十年なんて待たないで、十年前の時点でああしていれば、違ったこともあったんじゃないかと思いました。いや無理だろうけど。
銀さんの涙(恐らく高杉しか目にしてない)を見て尚そんなことが出来るとは思えないし、見てしまったからこそ憎むし憎めないし。
関係性が木端微塵になってでもあの時点で向かい合う勇気や気力や意志なんて、逆立ちしても出てこないよって思います。むり。
悪戯に長くなるばかりでちっともまとまらないですね。
もう次のジャンプが出てしまう。
こっから私事なんだけどどっかに書いておきたいからちょっとだけ。
ごめん重い話だと思います。
今日知らせがきて、伯父が亡くなったらしいです。
ここ数年会ってなくて、でも同じ東京に住んでることは知ってた。もう年だし疾患抱えてるし癌家系だしで親戚みんな覚悟はしてました。でも一度くらい見舞いに行きたかった。
行きたかったで終わってしまった。
人は死んでしまう。それを実生活に迫ったリアルな方からも背負った気分です。今更ですが。
家族を作らなかった人なので、死後のアパートやら組合やら葬式やらの整理調整はぜんぶ親戚でやるようです。つまりわたしも駆り出される。
人はすぐに死んでしまう。そしてそれは順番通りとは限らない。
よくそういうことを考えます。
だから悔いないように、悔いがあっても、抱えて生きる他ないんだなぁと、ぎんたまからもそうじゃない方面からも、思いました。作文。
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