愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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唐突かもしれないが、フジリューの封神演義を読んでたらこらえきれなくなったのでつらつら。
封神はわたしがヲタクの道を歩むことになったきっかけであり、それと知らず最初に読んだウスイホンは封神です。封神アンソロ18禁です。
初見で何の拒絶反応も出ずすんなり許容したわたしの歩む道はその時点で既に決まっていたのだ…
以下10数年レぺルでこじらせたあれこれ。感想。長い。あとすぐ話が変わる。
太公望が好きすぎて…
作中のネタ的なの拾ってくときりがないから太公望の話をするけど、もう、ホント、もう
この人の強さと弱さが堪らない。
強さと脆さというか。冷静さと人間味のバランスとか。
語ろうとして語りえない人であると思います。個人的には、銀さんも、赤木しげるさんも、達海監督さんもそう。いひおほせてなにかある。
王奕と伏義と太公望と王天君。
原作で、太公望+王天君=王奕=伏義、という図式が明確に示されてるんですけど、
融合後の伏義さまは「今まで通り太公望ってことにしてくれ」といってるし、見ててもどうも太公望だし、
いや女禍と戦ったときの「わしだけは空間転移で地球に帰らせてもらうが。仙道も宇宙に放り出されるがやむをえまい。人間界にとってはそのほうが望ましかろう」的なことをいったり誅仙陣張って「深深と溶けるがいい」とかあたりの冷徹さというか闇というかはああ王天君混ざってるなぁって感じもあるんですけど、あるんですけど
魂の割合の話ってたまにきくんですけど、ぶっちゃけあんまり気にならないです。
厳密に考えるなら、三分の一の王天君と一分の一太公望なら、融合しても占める割合は必然的に太公望のほうが多いだろうと思うし、
王天君は王天君でいることではなく太公望という片割れと共に生きることを選んだから、太公望として生きたい太公望の部分が多く表出してるのも頷けるし、伏義さまがほぼ太公望だってのはそんなに変な話じゃないと思うんです。
ただ、外からはけして窺い知れない部分で、彼がどれほど我々の知る太公望で、どれほどが今までと確実に変容しているのか、と考えたとき、案外そのまんまな気がしてならないんです。
王奕と伏義と王天君の記憶と経験を得た太公望、というのが今の伏義さまな気がして。
何万年前からいる始祖の伏義さま。自分の故郷を失くしてさすらい、新しい星を見つけた伏義さま。仲間たちに後を託されて世界を見ながら何万年も待った伏義さま。仲間たちの息吹が感じられる懐かしくも新しい彼ら動植物や妖怪が育んだ世界が、懸案通り滅ぼされるのをただ見ていた伏義さま。それを何度も何度も見てきた伏義さま。気の遠くなるような時間の果てに封神計画を立案し、魂魄を分割し記憶も薄れ自分が自分でなくなることも是とした伏義さま。
最早思いを及ぼすことの出来る尺度の話ではない気がしつつ…それでもそれを自分のこととして呑みこんで、ちゃんと立ってることが太公望になら出来る、気がしました。ときどきはしんどくなるんだろうけど。常ならそれを笑い飛ばすこともふざけたものいいで軽く流すことも出来る彼なら。
色んなことがあったろうに、憎しみで立ってた時期もあったろうに、結局最後には魂の片割れに「清らかなあんた」といわれてしまうような太公望なら。
スースって潔癖ですよね。という気持ちと、いや清濁併せのむよね。という気持ちとあります。どっちも本当なんだろうな。
コミックスを人から借りて読んでたんですけど、
天化封神の前後で天化の苛烈さに「道徳の言葉が思い出されるわ」といったあとに、「天化…」つって手を組み合わせて祈るように案じる一コマがあるんですけど、
そのシーンみて、あっこの人、他の人のときも実はこういう思いだったし心底助けに走りたかったしこれ以上そんな思いしたくないんだな、っていうのがありありと伝わってくる表情で、なんというか、せつなかったです。
誰も周りにいないからああいう顔で心配することが許されるという…(誰に許されるというか自分で自分を律してるから他者の前で周の軍師として封神計画執行者として絶対にああいう顔はしない)
唯一一緒に居るスープーだって彼の顔が見れるわけじゃないという…だからこそああいう顔が出来るのだという…
太公望って色々なものを託されながらここまで来てるので、その意味も価値も知りぬいて受け取ってきてるので、しんどいだけではない重さのかけがえのなさだってちゃんと抱えてるんだろうけど、それでもしんどくなることも多かろうと思いました。
姫昌も飛虎も末期の言葉が太公望に後を託すものだからね。十二仙もね。普賢も。もっといるかもね。でもここらへんがあまりにも重いからね。付き合い長いし。
聞仲も託したからね最期には。何という重さか。敵も味方も、国やら歴史やら世界やらを彼に託して逝ってしまう。
それでいて尚、女禍の問いに「んなもんは知らーぬ!おぬしに操られているのが嫌な者たちと共に戦った、それだけ」と言ってのけて、太上老君に「未来永劫幸せな世界をなんて言わない。わしらに出来るのはわしらが使った世界を次の者に正しくバトンタッチすることじゃろう?」なんて答えられる。
太公望はけして責任感だけで動いてるわけじゃなく、確かに責任感が強いけれども、それを自分はグータラなのだしその実ほんとはただのアホ道士なのだと、喧伝して回ってるポーズをとれる程度には心がしなやかなのだと。そう思うだにたまらんです。
ぶっちゃけますが、この人しあわせになったらいいのになぁ、と思いました。
何の具体性もないんですけど、この人しあわせになればいいのに、と強く思います。どういうしあわせかはわからないけれども。
どうせ訊いたって最終回後の彼はグータラしてふらふらしてる今は結構楽しいよって答えるんでしょうけども。最終回前のどの時点の彼に何訊いたってのらくらかわされるだけなんでしょうけど。
ほんとスースしあわせになったらいいのになぁ。
この人、長く自分を律してたせいでしあわせアレルギーになってるんじゃないか…?
妲己を憎み、人ならざる者が人の世界に関わりいいようにすることを憎み、戦乱を憎み、しかし己の憎しみを律した。憎いからどうする?どうするべきだ?というところにまで心を進めた。
郷愁を律し、寂寥感を律し、悲しみを律した。
もういいんじゃないかな、と思いました。最終回後なら。でも何もかもが一度終わり、新しくなり変わってゆく最終回後だからこそ、太公望は蓬莱には帰れないし神界にも行けないし行かないんだろうなぁとも思いました。そこにいる人たちが大好きだからこそ。
あんなにひたむきに無条件に慕ってくるスープーと武吉ちゃんには、だからこそいちばん会えないんだろうなぁと思いました。
慕う人たちから遠く離れ、妲己と始祖の仲間が息づく地球をさすらうことによってこそ、孤独な魂が慰められるというのなら、果たして彼の幸せとは一体どこにあるのかと小一時間。
仙道の時間感覚は人間とはかけ離れてるから、始祖さまの時間観念とは何をかいわんや。不老不死だし距離も時間も大した問題じゃないって気持ちがあるんでしょうが、それでもン百年に一度気まぐれがあればいいほう、ってレベルでしか旧知の者に会いに行かなそうなスース。もうちょっと頻繁に会いに行ってやって…
銀さんもそうですけど、人の中でこそ生きる人のように見えます、太公望。
なのに最後には一人でふらりと行ってしまった。
だから銀さんもそうするような気がしちゃうのかな…
あんなに老若男女から慕われ、かつけなされつつ親しまれて、なのに上に立つ者として信頼され、この人ならと評価され、愛されている。
そんな人なかなかいないよ…スースわかってんのかよスース…
ふっとあれを思い出しました。ドラゴンボールの孫悟空。太公望もああいう人。望むと望まざるとに関わらず中心にいる人。
アニメオリジナルであるドラゴンボールGTの最終回で、ドラゴンボールは願いを叶え過ぎた、命の呼び戻しや壊れた地球を直すなど、人の手の及ばぬ奇跡を成し遂げ過ぎて世界全体いやこの宇宙のバランスが崩れる、だからもう使ってはならない、みたいな話になって、少なくとも溜めこんだ穢れ(とは言ってなかったかな?歪みかな?)を浄化するまではドラゴンボールは誰の前にも現れないだろう、ってなって、大きく人間から逸脱していた悟空もドラゴンボールと一緒に行くことになり、そして彼は神龍と一体化してその化身となったんです。悟空はどうやら、作中に何人も出てくる神様よりも神様な、何かになった。
人間がドラゴンボールという万能の奇跡に頼らずに生きていったのなら、そのうちまた現れるさと、作中で誰かが言っていたような気がします。
太公望もそんな感じ。
神様よりも神様な何かになって、そのうちまたと言って行ってしまった。
悟空は一度、嫁も息子も残して「じゃあみんなまたな!死んだら会おう!」と言ってからりと死に、
今度は嫁と息子と友人と師が死んでも会えないところに一人で行くことになっても、屈託なかった。
わたし、ドラゴンボールで一番好きなやつ、悟空です。あの自分の道を知り抜いている感じ、すごい。
ドラゴンボールは悲しくないんです、でも封神演義は悲しいというかものすごく淋しいというか置いていかないでくれというか。空知の言ってた「ラピュタ俺を置いていかないでくれ」感がすごくよくわかった。
だんだん話がずれてる気がする…
太公望って外見年齢何歳くらいなんでしょう。
・12歳のとき村が滅ぼされて13歳のとき仙人界にのぼった。
・桃源郷の呂望くんは15歳~いいとこ18歳ぐらいに見えた。
ので、呂望くんのビジュアルが現在の太公望とほぼ同じくらいに見えたので、そのへんを推します。ど、どうあがいても十代。目が大きくて頬にまるみがあってともかく顔も背も小さい。やたらと服着こんでるのは体格の小ささを補おうとしてるようにも見えます。たまには露出してくれてもいいのよ…と思ってたら伏義さま生腕だからありがたやありがたや。
見た目は子ども、口調は老人。見た目は少年と青年の間くらいを推します。どっちにもとれる感じ。
何ていうか、生臭御法度で既に数百年生きてわりと枯れた不老不死の仙道ばっかりが出てくるせいか、色恋の話って皆無ですよね、基本的に全体的に。恋愛とか結婚とかそういうの必要ないし。してる人もそこそこいたけど。
何が言いたいかって、まだ12歳という思春期前にすべてを失いそれどころではなく、思春期にあたる時期にはもう崑崙にあがって修行始めててわりと憎しみも悲しみでそれどころではなく、そういう感情的にアップダウンの烈しい時期を過ぎて力をつけて封神計画受けるときには72歳で本人の自己認識はジジイになってて、スースって人生に色恋の要素ほぼゼロだよなって。
でなければあそこまで広く細やかに人を愛することなぞ出来まいってレベルで博愛。博愛というと誤解を招くかもしれないけど、最終的にグレートマザーになった妲己ちゃんに負けず劣らず、人とその世界を見守って歩いてくことにした伏義さまこと太公望は慈愛の人。
誰か一人を好きになってたら、恋愛の経験があったら、彼は自分を枯れてるジジイのように装わなかったんじゃないかなとちょっと思ったけど、どうなんだろう。
というかスースは何でジジイ口調になったんだろうなぁ。肉体年齢十代くらいで止まってて、起伏の少ない崑崙の修行の生活じゃ、自分が年を取ってるという意識も希薄になりそうなんだけどな。現に同期の普賢は外見通りの一人称と口調だった。外見と口調ってだいたい釣り合ってる人がほとんどだけど、太公望は正比例してる。
なんでだろうな。直の師匠の原始天尊さまがそういう口調だったから、というのは理由にならないしな。
年をとっている、と思いたかったのかな。
それももしかしたら憎しみや郷愁を薄めるために必要だったのかな。
わかんないけど、藪の中でいいんだけど、実年齢と口調ジジイの外見十代とかそれなんてロリジジイ。くそかわ!
かっこよくてかわいくて、
もしかしたら誰よりつらい思いをしつつ、そのつらさを誰に癒してもらうことも選ばなかった。
スープーと武吉はじめ仲間たちに知らずに肯定してもらってるものも沢山あったろうけども。
最後に妲己にすら肯定されてたようだけども。
生きててかなりしんどい思いをした方だろう王天君と聞仲と楊ぜんを例に挙げると、
王天君は他でもない太公望と融合することで満たされ、
同じく聞仲は飛虎と語ることが出来て色んなことに気付いた後に新しい風の太公望と殴り合い自身の幕を引くことを選べて(封神時に未練を残さず、封神後は飛虎がいる)、
楊ぜんはちょっと屈折して成長したけど愛されて育ったしやっぱり他でもない太公望をはじめとする他者を信頼することによって立ち、妖怪の自身を肯定した結果として妖怪と人間双方の架け橋の意味も持つ教主となり、
救済されてるんですよね、彼らは。癒されている。
じゃあその彼らのターニングポイントとなってる太公望は誰に癒され救われているのか…
スースにしたらその全員に救われてるし癒されてるよって感じなんだろうけど、見てる側としてはもうちょっと!こう!しあわせになってくれていいのよ!(意訳)ってなります。
まだ言い足りないけど流石に午前三時過ぎそうだから寝ますね(震えながら)
明日は月曜ジャンプの日。
封神はわたしがヲタクの道を歩むことになったきっかけであり、それと知らず最初に読んだウスイホンは封神です。封神アンソロ18禁です。
初見で何の拒絶反応も出ずすんなり許容したわたしの歩む道はその時点で既に決まっていたのだ…
以下10数年レぺルでこじらせたあれこれ。感想。長い。あとすぐ話が変わる。
太公望が好きすぎて…
作中のネタ的なの拾ってくときりがないから太公望の話をするけど、もう、ホント、もう
この人の強さと弱さが堪らない。
強さと脆さというか。冷静さと人間味のバランスとか。
語ろうとして語りえない人であると思います。個人的には、銀さんも、赤木しげるさんも、達海監督さんもそう。いひおほせてなにかある。
王奕と伏義と太公望と王天君。
原作で、太公望+王天君=王奕=伏義、という図式が明確に示されてるんですけど、
融合後の伏義さまは「今まで通り太公望ってことにしてくれ」といってるし、見ててもどうも太公望だし、
いや女禍と戦ったときの「わしだけは空間転移で地球に帰らせてもらうが。仙道も宇宙に放り出されるがやむをえまい。人間界にとってはそのほうが望ましかろう」的なことをいったり誅仙陣張って「深深と溶けるがいい」とかあたりの冷徹さというか闇というかはああ王天君混ざってるなぁって感じもあるんですけど、あるんですけど
魂の割合の話ってたまにきくんですけど、ぶっちゃけあんまり気にならないです。
厳密に考えるなら、三分の一の王天君と一分の一太公望なら、融合しても占める割合は必然的に太公望のほうが多いだろうと思うし、
王天君は王天君でいることではなく太公望という片割れと共に生きることを選んだから、太公望として生きたい太公望の部分が多く表出してるのも頷けるし、伏義さまがほぼ太公望だってのはそんなに変な話じゃないと思うんです。
ただ、外からはけして窺い知れない部分で、彼がどれほど我々の知る太公望で、どれほどが今までと確実に変容しているのか、と考えたとき、案外そのまんまな気がしてならないんです。
王奕と伏義と王天君の記憶と経験を得た太公望、というのが今の伏義さまな気がして。
何万年前からいる始祖の伏義さま。自分の故郷を失くしてさすらい、新しい星を見つけた伏義さま。仲間たちに後を託されて世界を見ながら何万年も待った伏義さま。仲間たちの息吹が感じられる懐かしくも新しい彼ら動植物や妖怪が育んだ世界が、懸案通り滅ぼされるのをただ見ていた伏義さま。それを何度も何度も見てきた伏義さま。気の遠くなるような時間の果てに封神計画を立案し、魂魄を分割し記憶も薄れ自分が自分でなくなることも是とした伏義さま。
最早思いを及ぼすことの出来る尺度の話ではない気がしつつ…それでもそれを自分のこととして呑みこんで、ちゃんと立ってることが太公望になら出来る、気がしました。ときどきはしんどくなるんだろうけど。常ならそれを笑い飛ばすこともふざけたものいいで軽く流すことも出来る彼なら。
色んなことがあったろうに、憎しみで立ってた時期もあったろうに、結局最後には魂の片割れに「清らかなあんた」といわれてしまうような太公望なら。
スースって潔癖ですよね。という気持ちと、いや清濁併せのむよね。という気持ちとあります。どっちも本当なんだろうな。
コミックスを人から借りて読んでたんですけど、
天化封神の前後で天化の苛烈さに「道徳の言葉が思い出されるわ」といったあとに、「天化…」つって手を組み合わせて祈るように案じる一コマがあるんですけど、
そのシーンみて、あっこの人、他の人のときも実はこういう思いだったし心底助けに走りたかったしこれ以上そんな思いしたくないんだな、っていうのがありありと伝わってくる表情で、なんというか、せつなかったです。
誰も周りにいないからああいう顔で心配することが許されるという…(誰に許されるというか自分で自分を律してるから他者の前で周の軍師として封神計画執行者として絶対にああいう顔はしない)
唯一一緒に居るスープーだって彼の顔が見れるわけじゃないという…だからこそああいう顔が出来るのだという…
太公望って色々なものを託されながらここまで来てるので、その意味も価値も知りぬいて受け取ってきてるので、しんどいだけではない重さのかけがえのなさだってちゃんと抱えてるんだろうけど、それでもしんどくなることも多かろうと思いました。
姫昌も飛虎も末期の言葉が太公望に後を託すものだからね。十二仙もね。普賢も。もっといるかもね。でもここらへんがあまりにも重いからね。付き合い長いし。
聞仲も託したからね最期には。何という重さか。敵も味方も、国やら歴史やら世界やらを彼に託して逝ってしまう。
それでいて尚、女禍の問いに「んなもんは知らーぬ!おぬしに操られているのが嫌な者たちと共に戦った、それだけ」と言ってのけて、太上老君に「未来永劫幸せな世界をなんて言わない。わしらに出来るのはわしらが使った世界を次の者に正しくバトンタッチすることじゃろう?」なんて答えられる。
太公望はけして責任感だけで動いてるわけじゃなく、確かに責任感が強いけれども、それを自分はグータラなのだしその実ほんとはただのアホ道士なのだと、喧伝して回ってるポーズをとれる程度には心がしなやかなのだと。そう思うだにたまらんです。
ぶっちゃけますが、この人しあわせになったらいいのになぁ、と思いました。
何の具体性もないんですけど、この人しあわせになればいいのに、と強く思います。どういうしあわせかはわからないけれども。
どうせ訊いたって最終回後の彼はグータラしてふらふらしてる今は結構楽しいよって答えるんでしょうけども。最終回前のどの時点の彼に何訊いたってのらくらかわされるだけなんでしょうけど。
ほんとスースしあわせになったらいいのになぁ。
この人、長く自分を律してたせいでしあわせアレルギーになってるんじゃないか…?
妲己を憎み、人ならざる者が人の世界に関わりいいようにすることを憎み、戦乱を憎み、しかし己の憎しみを律した。憎いからどうする?どうするべきだ?というところにまで心を進めた。
郷愁を律し、寂寥感を律し、悲しみを律した。
もういいんじゃないかな、と思いました。最終回後なら。でも何もかもが一度終わり、新しくなり変わってゆく最終回後だからこそ、太公望は蓬莱には帰れないし神界にも行けないし行かないんだろうなぁとも思いました。そこにいる人たちが大好きだからこそ。
あんなにひたむきに無条件に慕ってくるスープーと武吉ちゃんには、だからこそいちばん会えないんだろうなぁと思いました。
慕う人たちから遠く離れ、妲己と始祖の仲間が息づく地球をさすらうことによってこそ、孤独な魂が慰められるというのなら、果たして彼の幸せとは一体どこにあるのかと小一時間。
仙道の時間感覚は人間とはかけ離れてるから、始祖さまの時間観念とは何をかいわんや。不老不死だし距離も時間も大した問題じゃないって気持ちがあるんでしょうが、それでもン百年に一度気まぐれがあればいいほう、ってレベルでしか旧知の者に会いに行かなそうなスース。もうちょっと頻繁に会いに行ってやって…
銀さんもそうですけど、人の中でこそ生きる人のように見えます、太公望。
なのに最後には一人でふらりと行ってしまった。
だから銀さんもそうするような気がしちゃうのかな…
あんなに老若男女から慕われ、かつけなされつつ親しまれて、なのに上に立つ者として信頼され、この人ならと評価され、愛されている。
そんな人なかなかいないよ…スースわかってんのかよスース…
ふっとあれを思い出しました。ドラゴンボールの孫悟空。太公望もああいう人。望むと望まざるとに関わらず中心にいる人。
アニメオリジナルであるドラゴンボールGTの最終回で、ドラゴンボールは願いを叶え過ぎた、命の呼び戻しや壊れた地球を直すなど、人の手の及ばぬ奇跡を成し遂げ過ぎて世界全体いやこの宇宙のバランスが崩れる、だからもう使ってはならない、みたいな話になって、少なくとも溜めこんだ穢れ(とは言ってなかったかな?歪みかな?)を浄化するまではドラゴンボールは誰の前にも現れないだろう、ってなって、大きく人間から逸脱していた悟空もドラゴンボールと一緒に行くことになり、そして彼は神龍と一体化してその化身となったんです。悟空はどうやら、作中に何人も出てくる神様よりも神様な、何かになった。
人間がドラゴンボールという万能の奇跡に頼らずに生きていったのなら、そのうちまた現れるさと、作中で誰かが言っていたような気がします。
太公望もそんな感じ。
神様よりも神様な何かになって、そのうちまたと言って行ってしまった。
悟空は一度、嫁も息子も残して「じゃあみんなまたな!死んだら会おう!」と言ってからりと死に、
今度は嫁と息子と友人と師が死んでも会えないところに一人で行くことになっても、屈託なかった。
わたし、ドラゴンボールで一番好きなやつ、悟空です。あの自分の道を知り抜いている感じ、すごい。
ドラゴンボールは悲しくないんです、でも封神演義は悲しいというかものすごく淋しいというか置いていかないでくれというか。空知の言ってた「ラピュタ俺を置いていかないでくれ」感がすごくよくわかった。
だんだん話がずれてる気がする…
太公望って外見年齢何歳くらいなんでしょう。
・12歳のとき村が滅ぼされて13歳のとき仙人界にのぼった。
・桃源郷の呂望くんは15歳~いいとこ18歳ぐらいに見えた。
ので、呂望くんのビジュアルが現在の太公望とほぼ同じくらいに見えたので、そのへんを推します。ど、どうあがいても十代。目が大きくて頬にまるみがあってともかく顔も背も小さい。やたらと服着こんでるのは体格の小ささを補おうとしてるようにも見えます。たまには露出してくれてもいいのよ…と思ってたら伏義さま生腕だからありがたやありがたや。
見た目は子ども、口調は老人。見た目は少年と青年の間くらいを推します。どっちにもとれる感じ。
何ていうか、生臭御法度で既に数百年生きてわりと枯れた不老不死の仙道ばっかりが出てくるせいか、色恋の話って皆無ですよね、基本的に全体的に。恋愛とか結婚とかそういうの必要ないし。してる人もそこそこいたけど。
何が言いたいかって、まだ12歳という思春期前にすべてを失いそれどころではなく、思春期にあたる時期にはもう崑崙にあがって修行始めててわりと憎しみも悲しみでそれどころではなく、そういう感情的にアップダウンの烈しい時期を過ぎて力をつけて封神計画受けるときには72歳で本人の自己認識はジジイになってて、スースって人生に色恋の要素ほぼゼロだよなって。
でなければあそこまで広く細やかに人を愛することなぞ出来まいってレベルで博愛。博愛というと誤解を招くかもしれないけど、最終的にグレートマザーになった妲己ちゃんに負けず劣らず、人とその世界を見守って歩いてくことにした伏義さまこと太公望は慈愛の人。
誰か一人を好きになってたら、恋愛の経験があったら、彼は自分を枯れてるジジイのように装わなかったんじゃないかなとちょっと思ったけど、どうなんだろう。
というかスースは何でジジイ口調になったんだろうなぁ。肉体年齢十代くらいで止まってて、起伏の少ない崑崙の修行の生活じゃ、自分が年を取ってるという意識も希薄になりそうなんだけどな。現に同期の普賢は外見通りの一人称と口調だった。外見と口調ってだいたい釣り合ってる人がほとんどだけど、太公望は正比例してる。
なんでだろうな。直の師匠の原始天尊さまがそういう口調だったから、というのは理由にならないしな。
年をとっている、と思いたかったのかな。
それももしかしたら憎しみや郷愁を薄めるために必要だったのかな。
わかんないけど、藪の中でいいんだけど、実年齢と口調ジジイの外見十代とかそれなんてロリジジイ。くそかわ!
かっこよくてかわいくて、
もしかしたら誰よりつらい思いをしつつ、そのつらさを誰に癒してもらうことも選ばなかった。
スープーと武吉はじめ仲間たちに知らずに肯定してもらってるものも沢山あったろうけども。
最後に妲己にすら肯定されてたようだけども。
生きててかなりしんどい思いをした方だろう王天君と聞仲と楊ぜんを例に挙げると、
王天君は他でもない太公望と融合することで満たされ、
同じく聞仲は飛虎と語ることが出来て色んなことに気付いた後に新しい風の太公望と殴り合い自身の幕を引くことを選べて(封神時に未練を残さず、封神後は飛虎がいる)、
楊ぜんはちょっと屈折して成長したけど愛されて育ったしやっぱり他でもない太公望をはじめとする他者を信頼することによって立ち、妖怪の自身を肯定した結果として妖怪と人間双方の架け橋の意味も持つ教主となり、
救済されてるんですよね、彼らは。癒されている。
じゃあその彼らのターニングポイントとなってる太公望は誰に癒され救われているのか…
スースにしたらその全員に救われてるし癒されてるよって感じなんだろうけど、見てる側としてはもうちょっと!こう!しあわせになってくれていいのよ!(意訳)ってなります。
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