愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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もはや脈絡がないことを身上としてきたいくらいですが
「おまえ銀さん好きだな」と身内に日に三度もいわれたので、素直に吐き出すことにします。
銀さんがすきです。というか。
ぎんたまがすきなんですけど。
マイドキュメントとか整理してて、古いテキストのアレとかコレが出てきたんですが、ホンット初期のころは銀さんしか書いてなかったことが判明。しかも、サイトつくったあたりから半年後くらいまでは、もうほぼ銀さんでした。
サイトは、
「二次創作してみようかと思ったらとまらないなー」
→「ばかみたいな量になったなー」
→「なら置き場をつくろうかな」
と、いう趣旨でつくられたいわゆる倉庫です(身もフタもない)
こうしてちゃんと機能してるのは、ひとえに週刊連載の波にのまれたせいという…感想とか書いてたら倉庫ともいってられなくなった。
しかし今考えるとよくサイトもないのにテキスト書いてたと思う。更新とか目標とかないのに。
テレビとかみながらぼーっとうってました。書き出すともうテレビとか音とか外の世界の話になるんですが。
思うに絵が描けたらテキストは書いてなかっただろうなーってぐらい、
「三次元から二次元へのアプローチ」(絵を描くこと行為自体。複雑な要素の世界から二元論の範疇へ、という定義づけの作法)
あるいは
「二次元から三次元へのアプローチ」(描かれた事物それ自体。描かれたりんごが三次元のりんごと見まごうという事実。絵のりんご≠事物のりんごでありながら絵のりんご→事物のりんご、という図式が“観測者の我々がいる”という条件付きで成立するという特異さ)
って命題がだいすきなんですが、
考えれば考えるほど、なんでテキストなんて方法論をとってるのかわからんくらいすきなんですが、
しかし考えるまでもなかったのが、「つまりわたしは絵が描けないからだ」という結論に収斂するわけですねハイ。
やだもう上記の考えたっぽい部分まるっといらないじゃないですか。ばか。
たぶんうーんと、色彩はモノクロームを凌駕するけれども、色彩を凌駕するのはモノクロームからもたらされる想像力だよね、ってことなんだと思います。
白黒写真の色は想像するしかないから、想像のぶんだけ本物よりちょっと鮮やかだ、とか。そういう。
透徹したチェスも、うつくしい数式も、譜面もピアノの鍵盤も、
「真に独創的な人間があらわれる」といわれるものは、なぜか白黒なので。
本だって、よく考えたら字と余白の白黒ですし。
現実を凌駕する・書き換える・そこに現実をひろげみせる・ものは、モノクロームの想像性ひいては創造性から引き出されるんじゃないかなぁなんて。
で、それがフィクション・うそ・虚飾・であることを踏まえてひろげてみせる“現実”をどう定義するかってのが、どう書くかってことで、
それはおもしろいなってちょっと前から思い始めたので、文章書いてるんだと思います。方法論の問題か!
たぶん、最終的に方法論のはなしになるんだと思います。
でもなんでそのやりかたなのっていわれたら、「おもしろいから」になるんだと思います。
つまり書きたいということで。
しかし何この正当化!ここまでしないとものが書けないのかわたしは。いや、書くことにこんなに理由がいるのか!
かんぺきに話題がすっとんだ。
えーとつまり、なんでこんなに銀さんばっかなの自分、と思ったときに、銀さんに定義づけできる事物が多かったのと(つまり「坂田銀時」自体に特異点が多かった)、あとぎんたまには銀さんから入ったからだ、と思いまし、た。
一言で済むじゃん。
モノクロームを凌駕する色彩、を凌駕するモノクローム、という図式が成立してたとして。
そのモノクロームと色彩をまとめて凌駕してしまうものを見出したんです。
それは、ひかり、です。
基督教原理(創世記とか)から東洋に仏教まで、「ひかり」ってのはたぶん第一元素か根幹をなしてるんですが、それはともかく。
銀色って、色ですけど色じゃないんです。
ひかり、なんです。
白と黒が、厳密には色彩といいきれないものであるように。
だからなんだろうなーって、ぎんたまにはまってしばらくしたころ思いました。今もなんだかそんな感触は変わってません。
唐突ですが、わたしのあだ名は「クロ」です。
犬猫か!て感じですが、これもまたモノクロームのひとつなんですよね。
なので、色彩にかてないながらも凌駕する可能性だけは秘めたモノクロームとして銀色っていうひかりに惹かれるのかなぁなんて、思い始めればホントにきりがないんですが。
銀さんがすきなのは空知漫画だからとか性格ひっくるめたキャラ立ちに「ああああ」ってなるからとかいう点を抜きにしても、こんなふうなとこにも引っかかるんだ!ということがいいたかった。
いつも「銀さんがすきなのは銀さんだからだ」という結論にしかならないので、たまには違う結論を用意してみようと思った。
でも銀さんがすきなのは銀さんが銀さんだからです。
(本末転倒だ)
(ここまできてうえの労力をすべてパーにしやがった)
卒論の色彩論のしたがきみたくなった。もう何も思いつかなかったらこれを適当に転載しようか。
そうだ質問されてたのですが、たしかに文学部です。が、日文じゃないです。
ともだちはみんな日文なんですけど。
短大では国文学かじって民俗学かじってました。しかし国学の試験は落とし追試も落とし、また翌年おなじ授業とりなおしたほど何もきいてませんでした。ばか!
今も一応文学部のはしくれです。哲学とか美学とか専門です。
なのにちっとも哲学も美学もないサイトですみません。もっとこう、なんとか、…ならないのでこのままいこうと思います。いっそすがすがしいまでの方向で。
もうカテゴリ「銀魂語り」じゃないだろうコレ、と思いつつも他にカテゴライズできない。
どうして銀さんにもえるかの一側面だと思ってやってください。
「おまえ銀さん好きだな」と身内に日に三度もいわれたので、素直に吐き出すことにします。
銀さんがすきです。というか。
ぎんたまがすきなんですけど。
マイドキュメントとか整理してて、古いテキストのアレとかコレが出てきたんですが、ホンット初期のころは銀さんしか書いてなかったことが判明。しかも、サイトつくったあたりから半年後くらいまでは、もうほぼ銀さんでした。
サイトは、
「二次創作してみようかと思ったらとまらないなー」
→「ばかみたいな量になったなー」
→「なら置き場をつくろうかな」
と、いう趣旨でつくられたいわゆる倉庫です(身もフタもない)
こうしてちゃんと機能してるのは、ひとえに週刊連載の波にのまれたせいという…感想とか書いてたら倉庫ともいってられなくなった。
しかし今考えるとよくサイトもないのにテキスト書いてたと思う。更新とか目標とかないのに。
テレビとかみながらぼーっとうってました。書き出すともうテレビとか音とか外の世界の話になるんですが。
思うに絵が描けたらテキストは書いてなかっただろうなーってぐらい、
「三次元から二次元へのアプローチ」(絵を描くこと行為自体。複雑な要素の世界から二元論の範疇へ、という定義づけの作法)
あるいは
「二次元から三次元へのアプローチ」(描かれた事物それ自体。描かれたりんごが三次元のりんごと見まごうという事実。絵のりんご≠事物のりんごでありながら絵のりんご→事物のりんご、という図式が“観測者の我々がいる”という条件付きで成立するという特異さ)
って命題がだいすきなんですが、
考えれば考えるほど、なんでテキストなんて方法論をとってるのかわからんくらいすきなんですが、
しかし考えるまでもなかったのが、「つまりわたしは絵が描けないからだ」という結論に収斂するわけですねハイ。
やだもう上記の考えたっぽい部分まるっといらないじゃないですか。ばか。
たぶんうーんと、色彩はモノクロームを凌駕するけれども、色彩を凌駕するのはモノクロームからもたらされる想像力だよね、ってことなんだと思います。
白黒写真の色は想像するしかないから、想像のぶんだけ本物よりちょっと鮮やかだ、とか。そういう。
透徹したチェスも、うつくしい数式も、譜面もピアノの鍵盤も、
「真に独創的な人間があらわれる」といわれるものは、なぜか白黒なので。
本だって、よく考えたら字と余白の白黒ですし。
現実を凌駕する・書き換える・そこに現実をひろげみせる・ものは、モノクロームの想像性ひいては創造性から引き出されるんじゃないかなぁなんて。
で、それがフィクション・うそ・虚飾・であることを踏まえてひろげてみせる“現実”をどう定義するかってのが、どう書くかってことで、
それはおもしろいなってちょっと前から思い始めたので、文章書いてるんだと思います。方法論の問題か!
たぶん、最終的に方法論のはなしになるんだと思います。
でもなんでそのやりかたなのっていわれたら、「おもしろいから」になるんだと思います。
つまり書きたいということで。
しかし何この正当化!ここまでしないとものが書けないのかわたしは。いや、書くことにこんなに理由がいるのか!
かんぺきに話題がすっとんだ。
えーとつまり、なんでこんなに銀さんばっかなの自分、と思ったときに、銀さんに定義づけできる事物が多かったのと(つまり「坂田銀時」自体に特異点が多かった)、あとぎんたまには銀さんから入ったからだ、と思いまし、た。
一言で済むじゃん。
モノクロームを凌駕する色彩、を凌駕するモノクローム、という図式が成立してたとして。
そのモノクロームと色彩をまとめて凌駕してしまうものを見出したんです。
それは、ひかり、です。
基督教原理(創世記とか)から東洋に仏教まで、「ひかり」ってのはたぶん第一元素か根幹をなしてるんですが、それはともかく。
銀色って、色ですけど色じゃないんです。
ひかり、なんです。
白と黒が、厳密には色彩といいきれないものであるように。
だからなんだろうなーって、ぎんたまにはまってしばらくしたころ思いました。今もなんだかそんな感触は変わってません。
唐突ですが、わたしのあだ名は「クロ」です。
犬猫か!て感じですが、これもまたモノクロームのひとつなんですよね。
なので、色彩にかてないながらも凌駕する可能性だけは秘めたモノクロームとして銀色っていうひかりに惹かれるのかなぁなんて、思い始めればホントにきりがないんですが。
銀さんがすきなのは空知漫画だからとか性格ひっくるめたキャラ立ちに「ああああ」ってなるからとかいう点を抜きにしても、こんなふうなとこにも引っかかるんだ!ということがいいたかった。
いつも「銀さんがすきなのは銀さんだからだ」という結論にしかならないので、たまには違う結論を用意してみようと思った。
でも銀さんがすきなのは銀さんが銀さんだからです。
(本末転倒だ)
(ここまできてうえの労力をすべてパーにしやがった)
卒論の色彩論のしたがきみたくなった。もう何も思いつかなかったらこれを適当に転載しようか。
そうだ質問されてたのですが、たしかに文学部です。が、日文じゃないです。
ともだちはみんな日文なんですけど。
短大では国文学かじって民俗学かじってました。しかし国学の試験は落とし追試も落とし、また翌年おなじ授業とりなおしたほど何もきいてませんでした。ばか!
今も一応文学部のはしくれです。哲学とか美学とか専門です。
なのにちっとも哲学も美学もないサイトですみません。もっとこう、なんとか、…ならないのでこのままいこうと思います。いっそすがすがしいまでの方向で。
もうカテゴリ「銀魂語り」じゃないだろうコレ、と思いつつも他にカテゴライズできない。
どうして銀さんにもえるかの一側面だと思ってやってください。
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