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愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
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ああわたしのこの馬鹿。こんなこと忘れてたなんて。

25日空知誕生日おめでとう。いやいやいや、忘れてたわけじゃない。当日に気付いてた。ていうか他サイトさまの日記で知った(おい)
もうおめでとうしか云うことない。
嫁さんもらったら空知のまんがは変わるのかな?
思うことはあれど、とりあえずこれからもぎんたま読み続けることしかできることはないなぁと思って、今週も月曜日と木曜日におののきます。

月曜日…じゃんぷーこわい。
まんじゅうこわいを思い出しました。そうそうそれ。そんな感じ。

土曜日曜と引きこもって過ごしました。うっわすっごい珍しか!何も予定なくて出かけようともしないとか、恐ろしく久しぶりだ。たまにはこんな、何もしない日をつくろうと思った。
ほんとなんにもしなかったんだ。夕方まで寝てた。飯を食わなかった。テレビもつけなかった。この二日、西瓜とシュークリームしか食ってない。さっき茹でたキャベツ食ったな(今日はじめての食事)

マヨネーズって最高の調味料のひとつだと思う(まじめ)

調味料ヲタクです。輸入品店とか行くと調味料の棚の前で足がとまる。英語読めないのにずっと見てる。だいすき。
ブラックペッパーとマヨ、ラー油とケチャップは欠かせませんよね。もう毎日使うっていっても過言じゃない。
豆板醤をきらしてる。鷹の爪は袋でうきうき買ってきたんだが。

何がいいたいかというと、キャベツとマヨは最高の組み合わせだと。そういいたかったわけで。

マヨ嫌いのゆうじんがひとりいますが、やつはわたしが学校の昼にマヨ持ってったのを見てどん引きした。なにもそんな目で見なくても、てくらいにどん引きした。でもそいつは土方好き(愛を貫け)
食べ物の嗜好は仕方ないよね、わたしだってセロリ食えないもの。どんな料理の仕方したって食えないもの。絶対だめだ。野菜スティックとか、断 固 だ め だ。
セロリ好きなかた申し訳ありませ…昔はカレーとグラタンと食パンとホットケーキもだめだったわたしです。今はけっこう平気。

食べ過ぎるとだめになるってよくいいますよね。わたしんちはカレーがやたら多かった。グラタンもすごい多かった。しかもマカロニがだめだというのにグラタンはマカロニばかりだった。食パンは毎朝出た。おかげで和食党になった笑 ホットケーキは毎週日曜日朝の食い物だった。
いまだに好き好んでは食べないんですが…カレーはだいぶ緩和されたよ。自分でつくるのはだめだけど、学食のカレーは食べれるようになった(250円の罠)

こうしてみると、如何に変な嗜好のガキだったのかわかりますね…
普通喜ぶだろ。カレーにグラタンにホットケーキって。つくづく可愛げのないガキです。
甘党は直らないんですが。むしろ悪化している。コーヒーが飲めなくてクリープ入れまくって、事情聴取中の刑事さんにわらわれたくらいに。(二杯目からはクリープがふたつついてきた)(ありがとうけいじさん)
補導じゃないですよ…わたしにそんな度胸はありませんのであしからず。

とりあえずマヨが尽きる危機にみまわれてるので買ってこようと思います。帰りにおじゃんぷー早売りあるかな!
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聡美さんへ私信。
お誕生日おめでとうございま!
新緑の季節…というかもう暑いですね初夏?北海道の涼しさ(またの名を底冷え)を懐かしく思います。ちょ、ちょっとだけ分けてくれないかなあの冷気…

こんなところから失礼つかまつりました。聡美さんの学園生活に幸あらんことを!

ああうんそしてね、あの、あにぎん。何とか見れたので、えっと、以下感想。
赤マル見つけた!!

ロングインタビュー読みました。顔馴染みとの語りってああいうだるだる感だよね。まったくの第三者から聞くと弾劾されて然るものとか(普段お前はどんな会話してるんだとはいわんでください)
当人たちにはいつものやりとりなんだけどなぁ。

読まなきゃよかったか、と云われれば、「いいえ」。いいえ、読めてよかったです。赤マル自体も見つけられてよかった。

描き手と受け取り手で、意味って違うものだよなあと。そして描き手と描いたものは分離しているという。

京極氏の新刊(じゃみ)じゃないけど、評価は外からの言葉に過ぎないし、たとえその作品を称揚するものでも、ただしいことを云ってるとはかぎらない。わたしたちヲタクがとらえる銀魂の美点も欠点も、わたしたちがとらえたものに過ぎないということです。だからといって間違いじゃないんですが。
それがすべてではないということ。つまりはたんなるいち解釈。それだけです。

わたしのごとく異常な長語りもいち解釈。カプ至上主義者の論もいち解釈。同じ座上に乗るという点で優劣はないということです。

だから、一解釈をする個人として、二次創作者として、別段落ち込むことも何かフに落ちない思いを抱えることもしないでいいのだと思いました。あーそういう意味じゃスッキリー笑

だって好きでやってる二次創作。そして実は、わたしもまた自分の作品をどれだけの人が読みどう思ってるかはよくわかってません。把握できないというのがただしいし、それは作品にそくしたものであってやっぱり作者とは乖離してるから、無理矢理知るものでもない。

第一わたし自身が無言の読者ですから。発言しないんだ…チキンなんだ…

なので気に病むものは特にありません。でもだからこそ、たまにいただくレスポンスに目からうろこが落ちる。驚くし嬉しい。「そうかまじで読者はいたんだな」(失礼!)

オールキャラうたってるせいもあって、ほんと色んな方が訪問してくださるみたいなんで。リクエストでもそう思った。真撰組は少ないんですが、銀さんにフォーカス合わせてるからその反動もあるかなぁと思ってみたり。
これはオフレコですが、こないだノマカプ(銀妙とかお取り扱い)のサイトさまのリンクにうちの名前があるのを見つけて驚きました。そうかノマカプ……ほんとホモヘテロ混合の嗜好(思考だし志向)してるので、いつなんどきホモが飛び出てどん引きされるかわからんのですが。でもありがたいのは変わりません。ありがとございま!(ぺこり)

でもわたしに堂々ホモやらかす度胸はないかな…(オフ友がここを知り過ぎている)

……別部屋でもつくるか(ぼそり)


ああ話がずれた。ええと。
空知が普通の、だるい、しがない男でよかったと思ったんですねん。
ぎんたまや空知が好きであるほど、彼にはただの人であってほしい。手の届くところにおりてきてほしいという意味じゃありません。はなから手は届くだろうってことです(縦じゃなくて横の距離の問題)
創作者という意味以上(或いは以外)でのかみさまにしたくないんです。だって好きだから。好きであるほどに。

賛辞は、断絶だから。


ああスッキリした。まだ午前ですよこれ。
朝一で学校前のコンビニで立ち読んだからね…
おかげで遅刻したからね!(ばか)
これから第二のキャンパス(渋谷)まで移動なので、赤マルは買ってこうと思います。だって空知と大西のだるい会話がやっぱりいとしい。

行ってきまーす!
本家ぎんたまお題ですね!行ってきたら既にすごいことになってた。さすが旬。


昨日、渋谷センター街の幕末居酒屋というところに行ってきました。

内装がおもろかったー。でも「以蔵」はちょっとつよい酒だった…(下戸)
最後の一品が出てこなくてずっと待ってて、店員さんに尋ねたら注文を忘れられてて(悲劇)でも時間が遅くなりそうだったからキャンセルして帰ってきました。
それはまぁいいんですが(よくない)いや些末なことなんです。だってヲタトークするわたしたちの隣も明らかにヲタクの集会だったから。

模造刀まで持ってたんですよ!なっちゃんいわく、「菊一文字になんか似てる」。彼女はすきあらばヤフオクでおとそうと虎視眈々と狙ってる女です。いちまんさんぜんえん(推定)だって。

史実と大河と、あと勿論のことぎんたまについてもえらく盛り上がって語ってた。非常に仲間に入りたかった。
おとなのお姉さんたちの集会みたいでした。というかレイヤーくさいぜと同じくレイヤーのなっちゃんが云ってたので、イベント帰りの打ち上げぽかたです。

いやー、いるもんですな。場所のせいか。
打ち上げぽかたんです。だってけっこうな人数がいて語り合ってるのになぜか敬語。これはこれは…
こっちの席も、わたしとなっちゃんとあとコナンヲタと、三人しかいないのにえらい盛り上がってたのだけれど(恥ずかしい)

でも最後の一品待ってたおかげで三時間くらい居座る羽目になったんですが、それでも隣は、わたしたちよりちょっと後に来ただけのはずなのにまだまだ夜はこれから!な雰囲気でした。大人数ってすごいね。
隣にあてられたのと、あと最後の一品を食いぱぐれたので、渋谷駅の田園都市線の入り口前で、延々しゃべってました。なんかこう、口直し的な…
夜風が冷たいなか、二 時 間 も。

…五時開店の居酒屋に三時間いて、駅のなんもない壁んところで二時間…

おまえらもう一緒に住んじゃえよ(北海道では半同棲だった)(おまえらわたしんちを合宿所と勘違いしてないか)
バイトだったり学校の講義日程だったり、かみ合わないとこ多いので次遊ぶのは六月ですねん。わたしもバイトせなあかん!ひきこもるのが至上のよろこびだというのに!(日に当たれ不健康)

ちょいと私信で以下反転。
ユキツキさん!
おおおレスポンスどうもありがとうございます。銀桂といっていいものか微妙な出来のものですが、お気に召すところが一点でもあったならさいわいです。
リンクありがとうございます!近々確認にお伺いさせていただきたいと思います。ありがとうございます!
カプをもうちょっとがんばろうね自分、と思いました。力不足を感じたり。銀さんと桂のあいだにある空気について思いを巡らしてみたりします。腐れ縁てどんな。幼馴染てどんな。後者は経験にないので(わたしは転勤族の転入生)うぅんと唸ることが多いです。
紅桜後のふたりの会話を想定してみたつもり…ありがたいお言葉、ユキツキさんどうもありがとうございました!



以下今週おじゃんぷ!はいいたいよー
ぜんぜんぎんたまに関係ないことしゃべりに来ていいのか悩みどころです。
ミクシィで書けよ…て感じもするけれど、知り合いに晒すようなもんでもないんでちょいとここで。愚痴にあらず!


ちょっと授業で思うところがありまして。面白かったんだよねありていにいうと。
美学とか芸術学についてなんですが。学部がね、ちょいと違うから。わたしの専攻としてはそっちなんですが。
先生が二人ほどいまして、絵画的なものを専攻するのが一人と、去年一年学校休んでイタリア中心にヨーロッパ漫遊してきたのが一人。後者の講義。今のところ授業を受けてみるに、歴史と基督教と哲学全般に造詣が深い。

レオナルド・ダ・ヴィンチと聖骸布についてを端緒として、紀貫之と日本人的美的感覚、カント、アリストテレスでした。
面白いと思ったのはまぁ全部面白かったんですが。わりと食わず嫌いしてきたカントを興味深いと思えたことは収穫でした。ので、カントについて。

「無関心性」
踊り子が踊りを踊る。それを美しいと思う。
それはそこで完結しているんだというのが「無関心性」、なのかな?
劇が終わってから踊り子の楽屋に行こうとか、あの子としゃべってみたい、というのは、既に踊っていた踊り子とは分離したものなんだろうな。
カントは、そうして思った時点で(自分の欲が入った時点で)それは美ではなくなる、といっているらしいけれども。
まぁ美とは乖離してても、そこはそこで完結してるのだったら、美は魔力みたいなものじゃあないかな。時と場所、舞台設定と演出が必要な。魔力ってそういうもんです。

この前、えろすについてと銘打ってえんえん語ったけれども、怪盗キッドさまが魔性だというのはつまりこういうことです。魔力というのは、時と場所を選んで発現するものだという前提がある。キッドさまは分かりやすい演出をしておられる。白いマント、白い衣装、モノクルに、怪盗という肩書き。すべてが彼を「怪盗キッド」としてみせるための舞台設定で、マジックという演出が加わることによって、あそこまでの魔性に高められる。かくて魔力は立ち現れる。快斗くんに戻ると迫力も凄みもないのはつまるところこういうわけで。
ある一瞬にのみ眼前にあらわれる美という幻。劇という舞台で踊りという美が完結しているのなら、たしかに踊り子の楽屋をたずねるのは無粋です。が、別段間違ったことじゃあないと思うわけですお姉さんは。それが魔力に等しいものなら、そこで完結してるものなら、どうやったって劇が終わった後でその感じた美には壊すことはおろか触れることもかなわないわけで、だったら「自分の欲が出た瞬間に美は美でなくなる」というのはいかがなものかと思うわけですお姉さんは。まぁ興ざめるというば興ざめる、粋でないといえば粋でない。たしかにある意味で美ではなくなるんですが。
でもわたしがいってることは「魔力→美」ではあるけれども、「美=魔力」と一概にいえるかどうかもまた悩んでるんで、どうとも断言しがたい。いやいや、共通領域はたしかにあると思うんだけど。イコールでつなげるかどうかが問題。つなげなくてもいいんだけどね別に。

共通領域から、「主観的普遍妥当性の要求」へ話をつなげます。
自分が美しいと思うものは他者も美しいと思うはずだ、という無言の要求のこと。美的感覚が合わない人間とはうまくやれないのはつまりこういうこと。カントです。

上記を踏まえて、「目的なき合目的性」。
美と目的を結びつけてはいけない、とカントは云った(らしい)(台無しだよオイ)
何かを美しいと思ったら、そこに「何故」「どうして」といった理由はいらないってこと、なのかね。理由や動機を置き去りにして美はある、といったところか。

ええっと、カントは端的に云うとプロテスタント(「ローマカトリックを批判する者」)です。なので、デコラティブなもののために金集めをする法王から離れた、まぁ「誰かのためじゃなくて私」という主義を持つ人です。
なので、いろいろ上記した美についての論はここで一回転します。予想されうる結論は、「美とはわたしが判断するもの」、です。これはまぁ、そうっちゃそうなんですが、なんていうか西洋はものの「本質」を追究する性質があるから、カントの論はここで矛盾を含むというか。もとのところに戻ってきちゃったらだめじゃんと。
原点回帰は結構だと思うのだけれど、本末転倒になってしまうようだ。

カントの矛盾は恐らくここにあります。彼は美を大きく二分するんですが、それが、自由美と付属美。自由美は、花、鳥(なぜか極楽鳥や南国のもの)、アラベスク模様、歌詞のない楽曲、など。
で、付属美は、ひらたくいうと「条件付きの美」。前述した「目的なき合目的性」にかかります。

目的ありきのものは美にならない、ていう言葉なのだけれど、「~のために」が根幹にあって、目的概念があってはじめて美に至るものもあるよねと、そういってるわけですあのおじさんは(@カント)(なんていい草)

例①は建築。
建築物は何の目的もなく建てませんよね。学校とか教会とか、用途があってはじめてできる。建築というのは学校という目的のための手段なわけです。が、それでも建築は美しい。西洋の教会建築なんて、歴史的のみならず芸術的な遺跡ですもんね。
例②馬。
これがまたなんでなんだか、わかるようでわからんような感じなんだけれども。速く走る馬は美しい。つまりサラブレッドは美しいと。うん、なんかそうなるらしい。これはわたしの勉強不足だな。説明がしきれてない。もっと調べねば。
例③人間。
人間は美になれません。何故なら人間には目的意識があるからです。
でも、踊り子の例もそうだけれども、美しいことだってあるんです。だから、人間も条件付きの美。そういわれれりゃそうかと思うんですが。

ええっとここでやっと共通領域とかいう言葉に帰ってきますよ。

「普遍妥当性の要求」。別名、おれがきれいだと思うんだからお前もあれきれいだと思うよな(byジャ○アン)
に、基づいた「美的共通感覚」。
我々には共通する美的感覚がある、が要旨です。
これはもともとアリストテレスが云いだしたらしいんですが(うろおぼえ)(だって)

手で机に触れる。触れているのを目で見てる。触覚と視覚は別のものなのに、我々はそれを矛盾も混線もなく感じている。だったら、感覚を束ねる感覚器官があるはずだ、というのがアリストテレスいうところの「共通感覚」です。
これは科学的にいうところの神経系、つまり「脳」だと思うのですが。そこまでアリーさんはいってないので、まぁこれはここまでで。

感覚の共通の座、的意味合いだったんです、ここまでは。
これが18世紀から、微妙にして重大な誤謬があるかもしれない捉え方をされはじめる。

「sensus communic」(共通感覚)
    ↓
「comon sense」

コモンセンス、すなわち「常識」です。我々人間にはある程度共通した感覚、ひいては認識があるという。
たしかにそう信じなきゃやってられない(日常での他者とのコミュニケーションの危機に陥る危険がある)ので、いいんですが。いいんですが、無批判も礼賛もわたしは嫌いです。ええ嫌いですとも。
ただまぁ、変化するものとはいえ、ずいぶん遠い言葉になっちゃったねと。コモンセンスについてはそう思います。こっから「共感覚」ていう言葉が生まれ、精神分裂病や統合失調症といった現象やなんかにも連なったりするんですが、心理学はわたしの専攻ではないのでここで打ち止め。

なにがいいたかったかというと。うんまあカントですカント。まだ続きがある。

「絵画に色は関係ない。重要なのは形だ」
らしいですカント。ええっと、回り道すると、
色、音、味は「質量」といわれます。ヒュレーという。
それに対して「形式」があります。エイドスという。これはアリストテレスがいってたらしいですが。形式は形相ともいいますね。

形相の一例。花の種は外側からでは何の種かわからない。花実をつけて、はじめてそれが何の木か、花かわかる。つまり花がひらくまで本質はわからない。種という殻のなかに本質がくるみこまれているわけで。

アリストテレスの概念をちょいとかじります。さながら花の種のように、外からでは目に見えない本質があって、咲かせた花、つけた実がたとえば本質がかたちになったものとします。前者をエイドス、後者をモルフェ。ラテン語で後者をフォルマといいます。あれ逆だったかな。
そしてそのフォルマ「Forma」が転じて何になるか。英語の「form」、すなわち「かたち」です。こう考えると非常に面白い。
”本質があるかないかわからないものに形を与えて理解する”、それを「information」といいます。情報と訳されてからは身近になりましたね。情報ってのは、新しいようでいて随分古い言葉なのだよと先生は云っておりました。あーたしかに。

はい、「かたち」というものの持つ意味を踏まえて最後の見せ場いきますよ。

鍵盤の音のひとつをそれだけで美しいとは思わなくても、音が連なりメロディにまでなると、その旋律を美しいと思う。
ふたつのものがありそこには両者の関係があり、形式がある。

我々の美の感覚とは”形式的なもの”である。
形式的美、とカントはいいます。

絵画において、ひとつの色の好き嫌いについて論じられても、それは感覚的な好き嫌いであって普遍的な美ではない。
「色が集まった絵画」、その”絵画という形式”を我々は美しいと感じる。
これがさっきの「絵画に色は関係ない、重要なのはかたちだ」の意味であり、形式的美についての説明ですねん。


ああ長かった。こっからまだいいたいことあるんですがもうほんと無駄に長くなったんではしょってちょこっとだけ。

断言することで得られる世界についてです。成果であり正解であり、またそのどちらにもならないものでもある。
ここまで今日語った先生は、絵画的な専攻の先生よりひと世代うえでして。絵画的先生は彼を評して「断言的な世代」とか云いました。
わたしなりに噛み砕いた結果が、断言することによって手に入れ、また取りこぼすという方法論を採択している世代、のことではないかと。
世代によって価値観は違うからね。方法論も違うだろうねと。
たとえば「宗教は悪である」と断言したとする。
断言したことによって「悪であるところの宗教」は彼の手にはいる。
が、それ以外、つまり「善であるところの宗教」、「善ではないが悪ともいえない宗教」、「善悪など問題ではない宗教」は取りこぼされるわけです。
手にしたものの、なんと矮小でつまらぬものか。それでも、いくら僅かでも、その手にいれられるならば、語ることもしない卑怯なわたしなどよりはぜんぜんましなんですが。
断言することで手に入れる世界、について懐疑的なわたしも、絵画的な先生いうところの「そうでない世代」の一員なんだろうなと。なにより、懐疑的であるというところにその証拠があるのかと。そう思いましたねん。

わたしは断言することをしない人間です。慎重さ故ではありません。取りこぼされるものがあるのを知ってるからです。
と、いうか、「断言しない」というのがむしろわたしの基本姿勢ではないかと。絵画的先生の言と、今日語ってた先生とを見ながら、なあんとなく考えました。
言葉とは境界線をひくもので。断言というのはより強く境界を意識させる言葉だというだけですたぶん(オォイまた断言を避ける怯懦でたぞ)(ごめんでも怯懦だけでもない)

境界をひく、その仕草こそが境界的(マージナル)なのかなと。だから京極堂は実践者で、かつ境界に立つといわれるのかなと。言葉をあつかうというからにはそうとしか思えない。
こうして文字でなんやかや表現する以上、わたしも境界に立つマージナルな存在であるのかなぁと。語り部であるおのれをかえりみて思いました。
わたしも実践者なんです。


あっはっは落ち着く前に記事保存しちゃおう。長いうえに整理しながら書いてるからもう何がなんだか。わたししか意味わからんじゃないか。


こっから私信!
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