愛は瞳から生まれ、胸に落つる。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
唐突に来てみる。
ホームが違うところがつくづく自分のもえどころなのですが。
攘夷派って、「かつてホームを同じくしてたものが離れた」のか、「最初っからホームもなにも違ったんだけどある時点で重なってたこともあった」のか、わからないんです。どっちでも 非 常 に もえるのでよいのですが。
前者って、果たしてかなしいことですかね。学校の卒業を思い浮かべるんですけど、けしてかなしいものじゃないなあと思います。
縁があればまた会うだろうよと思って別れてるからかもしれません。明日会うかもしれないし一生会わないかもしれない、それが等価の。
後者は非常に好物です。柳生編のときもさんざん云った気がしますが、ホームと立場の違うやつらが利害関係で手を組むのが大好きなんです。実際重要視されるのが利害じゃないところが特に。というか表層に「利害」乗っけといて楽々振舞うのとか、粋だなぁと思います。かっこいい。
利害の部分を表層にしてるってのは、実際どう思ってるかとか原動力にしてる理由とは違うってことで。柳生編はよかった。
ええと話もどる。
村塾トリオと坂本はきっとホーム違うと踏んでます。互いに一線があったってこと。それが松陽先生の存在なのか、幼馴染と友人の違いなのかはわかりませんし、たぶん両方なんでしょうが。
で、村塾トリオもやっぱホームが違ったんじゃないかなと。
銀さんは孤児な気がします。ので、完全な妄想ですが松陽先生にはものごころついてから拾われたんじゃないかなと。
それって「ホーム」を定めずにやってってた子だったということで。
なんだかんだ、いいとこの子ぽい桂や高杉とは違うだろうなって思うんですねん。
かつてホームを同じくしていたというのが適用できるのは桂と高杉だけかな、と。いやほんと妄想で。
だからこそ紅桜篇の最後の桂の台詞、「ずいぶんと離れてしまったものだな」が効いてくるんです。個人的に。
桂にとってはホームとかそういうのあんま重要視してなくて、ただ友人として離れて隔たってしまったことをさびしいなと思ってるだけだとよいです。桂は銀さんや高杉よりもずっとシンプルな考え方してる気がする。一側面では単純、また別側面では男らしい。というか、高杉は烈しすぎて、銀さんは感傷的なんじゃないかな。
「ある時点においてのみつながってた=ホームに値するものが重なってた」がなんでこんなにすきかというと、それが稀有なことだからです。場所や誰かに執着して続いてきちゃったある意味「惰性」のものより、それぞれが選びとったものの結果として隣り合ってたってほうが誇り高いな、と。
個人的な攘夷ソングはミス/チルの「World's end」です。かつて同じ場所にいたそれぞれが互いのことを地球の裏側同士でふと思う感じが。
万事屋にとってはそれは未来のはなしだし、真撰組に至ってはそれこそないことですし。
相手が憎らしいほど元気にやってること確信できるから、離れててもよいものなんじゃないかな。なんて。
あと、飄々とどこにでも行って帰ってきてさらに行ってしまう感じは、攘夷派勢にこそ相応しい気がして。
真撰組は「過去現在とおしてホームを同じくするもの」なんですが、それもまたすきだ。ずっと続く関係性のなかで歪められたものと培われたものとが無矛盾に無批判に共存するところが。依存でなく、信頼のほうで。それが偽善的な幻想でも。
沖田と近藤・土方の間にわだかまりがあったってのがミツバ篇で露呈したのがよかったです。というか沖田が一方的な劣等感や距離感を感じていたというのがあまりにも頷けた。
あの三人の間にもそういうのがあったことがうれしくて。
届かないもの・もどかしいものが青少年にはあってほしいんです。掴み取ろうと・触れようと手を伸ばすことがやっぱり青少年の醍醐味で、それを後になって成長って呼ぶんじゃないかなって思うので。
常に土方に対してアドバンテージを握る沖田が同次元に存在してるからこそいえることですが。あれはいい。あそこの関係性はほんとにいい。
沖田が剣の腕で土方をしのいだことが決定的になった瞬間から変わったものもあるといい。それとガキ扱いすることは別であるとまたいいな。さらには一人前扱いすることもそれらとは別だともっといい。
「土沖」って意味でも「土方と沖田」って意味でも、真顔でゆうばりと朝まで語り合ったことがある気がします。それくらい好きだ。
真撰組は空知がなんかやらかす度に愛が増します。ミツバ篇が第一インパクト、動乱篇が第二次で。
沖田や土方の揺らぎが見れたからかな。今までもすきだったんだけどより愛着というか何かそんなんが増した。
近藤さんと土方について考えると銀登勢について考えてる時みたくなります。絶対に肉体関係がないのが至上かもしれない。
肉体関係ができちゃうと、一方通行じゃなくなっちゃうんですよね。近土は土方の、銀登勢は銀さんの一方的な何かが押し付けじゃなくてどっかにある。かぎりなく補い合い・お互いを見守りながら、絶対にふれない。肌に触れないし、振れ幅も一定上に振れないで限定された領域を守る。そういうの。
目で追ってしまうけど相手に求めるものはないといい。にも関わらず与えられてしまうことがあるといい。近土にしろ銀登勢にしろ、「相手に求めないからこそ与えられてしまうもの」があるように見える。
土方は近藤さんにこそ救いを求めない。他の誰にも求めない。強がりじゃなくて、それが土方。にも関わらず近藤さんにあっさり救われてしまう瞬間が存在する。
かなわない、でも悔しくない。むしろ「かなわないな」と笑みをこぼすようなのが個人的至上近土。
銀さんは自分のまわりのものを流れてくものだと思ってる。神楽ちゃんとか新八の存在はでかいな。自分はそれを見届ける人間だと思ってる。傍観者ポジションとか、戦争を生き抜いちゃった人間だとか、そういうの含めて。諦観もあって、でもそれが銀さんだから。
でもその銀さんを見届けるのがお登勢さん。そういう存在がいるってことを得がたく思って感謝してしまうこともあるだろうと。
色んなものを見届ける傍観者を見守る、そういうある種の救い。それが個人的至上銀登勢。
原作からずれてるのかずれてないのか。このラインに非常によわい。
たまに語りに来るとハンパなく話題が一定しないです。でも楽しかった。
明日は全休!全休!
サムチャ大詰めとグレンラガンで明日は終わると思います。はまってしまうかもしれないグレンラガン。
ホームが違うところがつくづく自分のもえどころなのですが。
攘夷派って、「かつてホームを同じくしてたものが離れた」のか、「最初っからホームもなにも違ったんだけどある時点で重なってたこともあった」のか、わからないんです。どっちでも 非 常 に もえるのでよいのですが。
前者って、果たしてかなしいことですかね。学校の卒業を思い浮かべるんですけど、けしてかなしいものじゃないなあと思います。
縁があればまた会うだろうよと思って別れてるからかもしれません。明日会うかもしれないし一生会わないかもしれない、それが等価の。
後者は非常に好物です。柳生編のときもさんざん云った気がしますが、ホームと立場の違うやつらが利害関係で手を組むのが大好きなんです。実際重要視されるのが利害じゃないところが特に。というか表層に「利害」乗っけといて楽々振舞うのとか、粋だなぁと思います。かっこいい。
利害の部分を表層にしてるってのは、実際どう思ってるかとか原動力にしてる理由とは違うってことで。柳生編はよかった。
ええと話もどる。
村塾トリオと坂本はきっとホーム違うと踏んでます。互いに一線があったってこと。それが松陽先生の存在なのか、幼馴染と友人の違いなのかはわかりませんし、たぶん両方なんでしょうが。
で、村塾トリオもやっぱホームが違ったんじゃないかなと。
銀さんは孤児な気がします。ので、完全な妄想ですが松陽先生にはものごころついてから拾われたんじゃないかなと。
それって「ホーム」を定めずにやってってた子だったということで。
なんだかんだ、いいとこの子ぽい桂や高杉とは違うだろうなって思うんですねん。
かつてホームを同じくしていたというのが適用できるのは桂と高杉だけかな、と。いやほんと妄想で。
だからこそ紅桜篇の最後の桂の台詞、「ずいぶんと離れてしまったものだな」が効いてくるんです。個人的に。
桂にとってはホームとかそういうのあんま重要視してなくて、ただ友人として離れて隔たってしまったことをさびしいなと思ってるだけだとよいです。桂は銀さんや高杉よりもずっとシンプルな考え方してる気がする。一側面では単純、また別側面では男らしい。というか、高杉は烈しすぎて、銀さんは感傷的なんじゃないかな。
「ある時点においてのみつながってた=ホームに値するものが重なってた」がなんでこんなにすきかというと、それが稀有なことだからです。場所や誰かに執着して続いてきちゃったある意味「惰性」のものより、それぞれが選びとったものの結果として隣り合ってたってほうが誇り高いな、と。
個人的な攘夷ソングはミス/チルの「World's end」です。かつて同じ場所にいたそれぞれが互いのことを地球の裏側同士でふと思う感じが。
万事屋にとってはそれは未来のはなしだし、真撰組に至ってはそれこそないことですし。
相手が憎らしいほど元気にやってること確信できるから、離れててもよいものなんじゃないかな。なんて。
あと、飄々とどこにでも行って帰ってきてさらに行ってしまう感じは、攘夷派勢にこそ相応しい気がして。
真撰組は「過去現在とおしてホームを同じくするもの」なんですが、それもまたすきだ。ずっと続く関係性のなかで歪められたものと培われたものとが無矛盾に無批判に共存するところが。依存でなく、信頼のほうで。それが偽善的な幻想でも。
沖田と近藤・土方の間にわだかまりがあったってのがミツバ篇で露呈したのがよかったです。というか沖田が一方的な劣等感や距離感を感じていたというのがあまりにも頷けた。
あの三人の間にもそういうのがあったことがうれしくて。
届かないもの・もどかしいものが青少年にはあってほしいんです。掴み取ろうと・触れようと手を伸ばすことがやっぱり青少年の醍醐味で、それを後になって成長って呼ぶんじゃないかなって思うので。
常に土方に対してアドバンテージを握る沖田が同次元に存在してるからこそいえることですが。あれはいい。あそこの関係性はほんとにいい。
沖田が剣の腕で土方をしのいだことが決定的になった瞬間から変わったものもあるといい。それとガキ扱いすることは別であるとまたいいな。さらには一人前扱いすることもそれらとは別だともっといい。
「土沖」って意味でも「土方と沖田」って意味でも、真顔でゆうばりと朝まで語り合ったことがある気がします。それくらい好きだ。
真撰組は空知がなんかやらかす度に愛が増します。ミツバ篇が第一インパクト、動乱篇が第二次で。
沖田や土方の揺らぎが見れたからかな。今までもすきだったんだけどより愛着というか何かそんなんが増した。
近藤さんと土方について考えると銀登勢について考えてる時みたくなります。絶対に肉体関係がないのが至上かもしれない。
肉体関係ができちゃうと、一方通行じゃなくなっちゃうんですよね。近土は土方の、銀登勢は銀さんの一方的な何かが押し付けじゃなくてどっかにある。かぎりなく補い合い・お互いを見守りながら、絶対にふれない。肌に触れないし、振れ幅も一定上に振れないで限定された領域を守る。そういうの。
目で追ってしまうけど相手に求めるものはないといい。にも関わらず与えられてしまうことがあるといい。近土にしろ銀登勢にしろ、「相手に求めないからこそ与えられてしまうもの」があるように見える。
土方は近藤さんにこそ救いを求めない。他の誰にも求めない。強がりじゃなくて、それが土方。にも関わらず近藤さんにあっさり救われてしまう瞬間が存在する。
かなわない、でも悔しくない。むしろ「かなわないな」と笑みをこぼすようなのが個人的至上近土。
銀さんは自分のまわりのものを流れてくものだと思ってる。神楽ちゃんとか新八の存在はでかいな。自分はそれを見届ける人間だと思ってる。傍観者ポジションとか、戦争を生き抜いちゃった人間だとか、そういうの含めて。諦観もあって、でもそれが銀さんだから。
でもその銀さんを見届けるのがお登勢さん。そういう存在がいるってことを得がたく思って感謝してしまうこともあるだろうと。
色んなものを見届ける傍観者を見守る、そういうある種の救い。それが個人的至上銀登勢。
原作からずれてるのかずれてないのか。このラインに非常によわい。
たまに語りに来るとハンパなく話題が一定しないです。でも楽しかった。
明日は全休!全休!
サムチャ大詰めとグレンラガンで明日は終わると思います。はまってしまうかもしれないグレンラガン。
PR
COMMENT FORM
COMMENT